わがまち・ウリトンネ(44)/東京・馬込(1)


朝5時からニコヨン≠ノ

 東京・大田区の馬込。「馬を追い込む牧場があった」ことから、この地名がついたという。

 「競争馬の調教場があったんです」

 1947年から馬込のトンネに住む2世の金永文さん(72)はこう話す。金さんの言葉を頼りに
資料を探してみると、1905五年、馬込に近い現在の池上6〜8丁目に、池上競馬場があったことが判明した。

 その馬込に人が住み始めたのは、1908年に競馬場が閉鎖され、調教場がなくなってからだ。

 同胞がいつから住み始めたのかは定かではないが、多くが住み着くようになったのは祖国解放(45年8月15日)直後だったと金さんはいう。慶尚(南北)道出身者が多い点が特徴だともいう。

 魯晋伯さん(71)もその1人。慶尚北道生まれで、「トンネの主」と呼ばれている。魯さんは解放前、兄を頼って渡日し、品川で解放を迎えた。その直後、馬込に多くの同胞が住んでいるとの話を耳にし引っ越してきた。

 「現在の東馬込1丁目45番地を中心に、120余戸の同胞宅があった。家は平屋のバラック。当時、同胞の仕事と言えば、鉄くずや古着を集めるバタ屋、『ニコヨン』、上下水道の汚物処理などしかなかった」と振り返る。

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メ     モ 

   ニコヨンとは、254円のこと。当時の日雇い労働者の日給が254円だったことから、日雇い労働のことをそう呼んだ。

 
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 馬込の同胞たちは毎日、JR大森駅東口近くにある大森職業安定所に通った。トンネから歩いて25分ほどの所で、今もある。

 「朝5時にはみんなで出かけ、並んでその日の仕事の番号札をもらった。もらえなければ、『あぶれ』。現場は大田区内で、内容は主に空襲で破壊された建物の破片などの回収作業だった。254円で生活ができるわけがなかった。みんなギリギリのところで生きるしかなかった」(魯さん)

 一方、仕事に「あぶれ」た人は、バタ屋の仕事に便乗する人が多かったという。

 リヤカーを引いて、爆弾の破片などの鉄くずを拾い問屋に卸す。山王や洗足池など、近所の池の中から鉄くずや真ちゅう(黄銅)などを拾ったり、日本人宅を訪ねて鍋や火鉢などをもらうか、低価格で買い取って集めたりもしたという。

 ちなみに馬込には、同胞らで作った銅鉄組合が80年代まであった。解放直後から多くの同胞がバタ屋に携わってきた証である。                               (羅基哲記者)