それぞれの四季

「歴史の中の女性たち」
百済永継(中)/尹美恵
くだらのえいけい


 「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」――栄華の絶頂にあった藤原道長の高笑いが聞こえてきそうな歌である。

 太政大臣として位人臣を極めた道長は、4人の娘を4代の天皇の中宮(皇后)にし、その3人の外孫を次々に天皇に即位させ、摂政となった。「この世はすべて私のものだ」と豪語するのも無理はない。こうして外祖父である藤原氏が摂政・関白として天皇権を代行・補佐し、権力をほしいままにしていくという政治システムができあがる。平安時代とはまさしく藤原摂関時代である。

 摂関家とは藤原北家をさす。しかし、北家が最初から他の藤原氏を圧倒する存在であったわけではなかった。不比等の4人の息子が分かれた南家・北家・式家・京家のうち、当初は長男の南家が本流で、三男の式家も桓武の皇后を出すなど、権勢を競いあった。

 中央政界での南家や式家の華々しい活躍に比し、二男房前の北家はあまりパッとしなかった。が、ここにあでやかに登場するのが百済永継である。房前の孫の藤原内麻呂の正室である永継は、内麻呂との間に2人の息子をもうけたが、桓武に見初められてその寵姫となり、皇子良岑安世を生む。

 妻が君寵を受ければ、夫も覚えめでたくなる。内麻呂はその後、急速に栄進して右大臣となり、太政大臣を追想される。これを契機に北家は家運を興隆させ、百済永継の二男冬嗣は左大臣に、孫の太政大臣良房は人臣初の摂政に、さらにその子の基経は初の関白になった。道長は冬嗣の六代目の子孫にあたる。  (歴史研究者)