近代朝鮮の開拓者/芸術家(7)
卞寛植(ピョン  グァンシク)


自由奔放な山水画家
日本の東洋画の実態を見聞

 卞寛植(1899〜1976年)

  号は小亭。祖父・趙錫晋の影響を受けて画を学ぶ。母も妻も失い放浪の旅を続ける中で、祖国の山水画を描くことに救いを見出そうとした。若々しい独特な筆法で伝統画を革新した。

 青田・李象範が質素で堅実な生活の中から、「朝鮮的山水の結晶」ともいうべき心に染み入る山水画を画室にこもって描き続けたのに反して、小亭・卞寛植の生活と画風を特徴づけるのは、反骨と放浪、奔放と何ものかに対する渇望であろう。黄海道・甕津の漢方医の次男として生まれた卞寛植は、幼い頃から母方の祖父で李朝末の画家・小林・趙錫晋(1853〜1920年)の家に出入りし、絵に対する深い影響を受けた。

 しかし、祖父はソンジャ(孫)が画家になることに反対し、画筆を持つことを厳しく禁じた。当時の画家の社会的地位や生活の困難を考えてのことであろう。

 11歳の時、祖父に従ってソウルに上京し、小学校を出て、官立工業伝習所の陶器科に入ることになった。多分、祖父に勧められての気に染まない選択であった。

 2年の課程を終えるが、陶器の道に進まず、しばしば書画美術院に出入りして、そこの画家生と親しくなり、祖父の画を肩ごしに見ながら画法を学んでいった。ここで李象範や、生涯の親友となる以堂・金殷鎬(1892〜1979年)などと交友した。


 1918年、19歳の時、朝鮮書画協会が結成されると金殷鎬や李象範と共に、これに参加した。結婚もし、安定した環境下で制作に励もうとする矢先に、彼は次々と不幸に見舞われていった。

 祖父であり、師でもある趙錫晋が亡くなり、ついで母と妻の死に遭うのである。

 しばらく虚脱状態が続いたが、何年か経った後、書画協会の名誉会員であったある人物が、金殷鎬と共に勉強を兼ねて日本に行ってみないかと勧めた。こうして1925年から29年まで、日本での生活が始まる。この間、東京美術学校の聴講生となって、日本の東洋画の実態を見聞した。

 帰国して書画協会の幹事となるが制作に打ち込めず、放浪生活を続け、ついに金剛山に入ってしまう。後の回顧録によれば「永遠なる女性を求めて」、という修道僧のような放浪であった。

 しかし、日帝時代の末期、放浪の中で金剛山と出会ったことは、解放後の彼の制作に大きなテーマを与えることになった。

 分断の結果、再び尋ねることができなくなった金剛山のあちこちの実景を、彼は鳥瞰図(ちょうかんず)的な方法を取り、自由で奔放な濃い墨の積み重ねと、短かい破線の結合で描き出し、祖父の趙錫晋を越えた若々しくも新しい朝鮮の山水画を創造していったのである。晩年にも、画壇の非理を暴くなどの反骨精神は衰えることがなかった。(金哲央、朝鮮大学校講師)