近代朝鮮の開拓者/芸術家(4)李鐘禹(リ ヂョンウ)


李鐘禹(1899〜1981年)

  黄海道の大地主の次男として生まれる。平壌高普から東京美術学校に進学。1925年〜28年パリに留学、西洋画法を学ぶ。帰国後、個人展を開く。朔星会研究所などで後進の養成に励む。

「某婦人の像」が画展に入選/最初のパリへの絵画修業者

 19世紀の末年、黄海道の大地主の家の次男として生まれ、平壌高普(旧制中学校)を卒業した李鐘禹は、家には法学を勉強すると偽って、東京美術学校に入学(今の東京芸大、朝鮮人としては4人目の入学)する。

 春や夏の休暇の帰郷には法律書を持って帰り、家族や近隣の人々に世界の情勢や東京の珍しい話などをして、みんなの期待を集めた。

 ところが卒業も近い3年生の帰郷の時、「実は、法律の勉強とはウソで、本当は…」と告白したのだ。家中を失望のどん底に落としてしまった。その当時では、絵かきなど、まともな家の子弟のする仕事ではないと思われていたからだ。

 彼が西洋画に魅力を感じたのは、平壌高普時代に牡丹峰を散歩していた時、一人の日本の紳士が三脚を立てて写生しているのを見かけた時だ。その肩ごしに画面を見ると「厚い絵具をサッサッと画面に置いて行くのだが、見るみるうちに本物の風景よりも美しい絵になっていくのだった」と、その驚きを回顧している。その人こそ、本格的な絵を学んで平壌に来ていた高木背水であった。こうして見ると平壌は、先輩の金観鎬もそうであるが、近代絵画とは縁の深い都市である。

 美術学校を卒業して帰ると、これまた先輩の高羲東が中央学校の絵の先生の職を準備して待っていてくれた。こうして、これら近代絵画の先駆者たちの活動によって、わが国に近大絵画の歴史が展開されて行くのである。


 1925年、彼に一つの転機が訪れる。彼は家族に、前々からの希望である、美術の都パリに行ってさらに本格的に勉強したい旨を打ち明けるのだ。この間に父母たちの考えも変わってきていた。

 「せっかくやるなら、しっかりやって第一人者になれ。必要ならばパリでも、どこでも行ってこい」ということになった。こうして彼は、25年から3年間、パリに留学することになった。当時のパリは、世界の先端美術流派が競い合う美の中心地であった。そのパリへ朝鮮人として最初の修行に出かけたのである。

 パリでは、シュハイエフという人の研究所で伝統的な西洋画法をものにし、主に人物画やデッサンを仕上げていった。代表作の「某婦人の像」(延世大学校所蔵)はサロン・ドートンヌ展に入選。帰国するや、たちまち彼は、画壇の「長老」となる。平壌で金観鎬と朔星会研究所を指導。その後、一貫してわが国の近代画家の先輩として後輩の指導にあたったのである。(金哲央、朝鮮大学校講師)