わがまち・ウリトンネ(38)/横浜・中村(1) 金南珠


半数が土工、日雇い人夫/住民の生活動脈£zく

 神奈川県横浜市南区にある中村トンネ。今、ここには60余戸の同胞宅がある。

 祖国解放(1945年8月15日)前、横浜市に住む同胞の多くが土木業に従事していた。彼らは市内各地にトンネを形成した。中村トンネもその一つである。

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【メ   モ】

  横浜市神奈川区表高島町には1921年、低賃金労働者の宿泊施設として横浜社会館が設立された。設立から28年までの7年間に、約6万人の同胞が宿泊(川崎社会館は同時期約3万人が宿泊)したという。

 多くの同胞が横浜市内にいたということだが、関東大震災(23年9月)後の一時期には、朝鮮人虐殺の恐怖から逃れるために帰国あるいは県内を離れる同胞が増えた。しかし逆に、震災復旧と関連した土木工事などに従事するため、他県から多くの同胞たちが市内に移ってきた。そのため、同胞数が増加するという皮肉な現象が生まれた。

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 35年には、市内に住む同胞数は5916人(男子3486人、女子2430人)に達した。39年には約8800人に膨れ上がり、県内トップとなった。

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【メ   モ 

  横浜市社会課の「朝鮮人生活状態調査」(35年)によると、有業者の49%が土工、日雇い人夫で、以下は裁縫職・助手、屑買、沖人夫、運搬夫などであった。

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 では中村トンネの同胞たちは、どのような土木事業に従事していたのか。

 全体像を把握することはできなかったが、トンネの長老の一人、金南珠さん(83)に話を聞くことができた。

 「トンネの裏手に山があるんです。山の上の部分は削られ、近年、そこに住宅を建てる人が増えています。地名で言うと唐沢、平楽です。トンネにいた同胞たちは、その住宅地とトンネを結ぶ、東坂、狸坂、山羊坂、蓮池坂、大坂などの坂に石の階段を建設したと聞いています」(金さん)

 金さんの案内で狸坂の石段を登り、トンネを見渡してみた。下校する小学生や買い物帰りの主婦などが、その石段を利用していた。地元住民にとっては、なくてはならない 生活動脈 となっている。                                                       (羅基哲記者)