知っていますか-朝鮮半島なんでも初めて
東医宝鑑
東方医学史に輝く専門書
官本として普及させた江戸幕府
李朝時代、 診療所で子供 を診る医者 |
1610年、15年間の血のにじむような努力の末に、医学者の許浚(ホ・ジュン)によって完成された「東医宝鑑」。全25巻からなるぼう大な医学書である。
朝鮮半島を代表する医学書として評価が高く、中国、日本はもとよりドイツなどヨーロッパ諸国にも広く伝えられ、江戸幕府は官本として印刷、普及させたほどだ。
書の内容は大きく分けて、(1)内景編(4巻。内科の病気と精神病など)、(2)形編(4巻。外科的疾患に関するもの)、(3)雑病編(11巻。伝染、流行、婦人、小児病など)、(4)湯液編(3巻。薬物学)、(5)鍼灸編(1巻)から構成されている。
それら編ごとの内容を見ると、例えば外科編は1巻で頭、面、眼、2巻は耳、鼻、口舌、咽喉(いんこう)、背、歯牙など、3巻は胸、腹、脈、筋、骨、4巻では手、足、毛髪などを扱っている。当時としては、非常に詳細な専門書であったことがうかがえる。
「東医宝鑑」の特徴は、それ以前の医学書と比べて、第1に病気を精神と肉体の相互の連関、統一性の中で見るばかりでなく、肉体に対する精神作用の重要性を指摘し、第2に治療に際して朝鮮半島で採れる国産の薬を重視した点である。
1596年、当時の宣祖の命によって編さんに当たった許浚は、国中でまん延する天然痘の予防と治療、豊臣秀吉の再侵略の中で編さんグループが4散するという悪条件、さらには権力闘争に明け暮れる支配層の陰謀によってあらぬ疑いを着せられ流刑に処されるという境遇にあいながらも、たった1人で東方医学史にさん然と輝く大事業を成し遂げた。その時、すでに70歳を越えていた。
「東医宝鑑」の編さんを終えた彼は、本来の役人としての仕事に戻ったが、その折、平安道一帯で疫病が流行した。
その報を聞くや彼は、患者の治療のために単身、現地に赴いた。そして、皮肉にも当地で疫病にかかり波乱にみちた生涯を閉じた。