わがまち・ウリトンネ(52)
千葉・習志野(1)
「土取り場」と呼ばれた泥捨て場/鉄道敷設の飯場跡
(どどり)
京成電鉄の津田沼駅にほど近い所に前原町がある。住所は千葉県船橋市だが、地元の人々は習志野トンネと呼ぶ。実際、地理的にはほとんど習志野市に近い。
「この前原と土取り(どとり)場がトンネの中心でした」と、祖国解放(1945年8月15日)前からここに住んでいた長老、韓在益さん(82)は語る。
40年代初め、23歳の時に募集で日本にやってきた韓さんは当初、長野にいたが、解放前に鉄道敷設に駆り出されて千葉にやってきた。現在のJR津田沼駅の下方に、その飯場があった。
「飯場は2つあり、70人ほどがいました。60人あまりが朝鮮人で、解放後、私と親方を除いてみな、帰国しました」(韓さん)
飯場は「土取り場」と呼ばれていた。
「トロッコについた泥を取る場所だったからです」と、韓さんの妻、許玉子さん(72)がいう。泥を取るとは、捨てることにもつながる。泥を捨てるような所だから、現場でも最悪の場所であったことが想像できる。
韓さんと許さんが結婚したのは48年のことだ。
「親同士が知り合いで結婚することになったんです。しかし、他地方からお嫁に来たので、最初は場所などわかりません。高台の方に家が連なっているのでそこかと思ったら、何と土手の下。びっくりしました」と許さんは笑う。
◇ ◇
その土取り場に最初から住んでいたのは、韓さん夫婦だけだった。
「最初の頃は豚を飼って生計をたてていました。だけど、なにせ低い場所でしょ。雨が降るとすぐに床上まで浸水してしまうんです。私らはほかの場所に避難しましたが、豚はそのまま。翌朝来てみると、豚が泳いでたりしてね」(許さん)
そうこうするうちに、夫婦を頼って同胞らが少しずつ集まるようになって2、30軒になり、トンネが形成された。
韓さんによると、その頃の同胞たちの職業と言えば、養豚業、バタ屋、日雇い労働がほとんどだったという。
「飯場跡だったんで、電気は通っていました。電球が切れたら自分たちで直しました」と許さんはいう。
その後、鉄道の拡張計画によって、立ち退きを要求される。
「鉄道管理局に何度も掛け合いに行きました。『私たちには行く所がない』と、みんなでたたかいました」(韓さん)
結局、局側が捨てられた古い材料を持って来て、バラックを建てることになり、最初のトンネからほど近い場所にみんなで移った。畳もなかったので、古い物を1枚ずつ持って、集団で引っ越した。立ち退き騒動から3年ほど後のことだ。 (文聖姫記者)