エッセー

介護支援センターを設立したSさんをみて思うこと/申順六


恩返し、世代から世代へ

亡き祖母を思い返す

 人は年を重ねる毎に、その人の原点へと立ち返っていくものなのだろうか。

 7年前に亡くなった外祖母は、それまでの10年間をずっと病院で過ごした。

 当時学生だった私は、外祖母が何度も病院を転院する理由がわからなかったが、今思えば、慢性の病でほとんど回復の見込みのない彼女に、病院は何年もベットを貸してはくれなかったのだ。そうかといって、自宅で療養できる状況でもなかった。家族は女手も含めて全員が働かねばならず、ついに彼女は自宅へ戻ることができなかった。

 私が幼い頃、外祖母の家に泊まりに行くと、彼女は夜寝る前に必ずピョンヤン放送を聞き、ボソボソと声を出して朝鮮新報を読んでいた。母が仕事に出かけている昼間、幼い私の世話をするために、毎日電車に乗って通ってくれたりもした。

 そんな外祖母が私は大好きだったが、病院へお見舞いに行く度に彼女は小さくなっていき、そして、あんなに日本語が上手だったのに、だんだんと故郷・済州道の言葉しか話さなくなった。私の学んだウリマルでは到底、生きた故郷の言葉に太刀打ちできず、最後の方はほとんど意思疎通ができなくなってしまった。言葉のやり取りが途切れる度に生じる間(ま)が、ひどく悲しく感じたことを覚えている。

問題を一つひとつ解きほぐさねば…

 日本という異国の地で在日1世たちは、民族の誇りと尊さを伝え、生活を守るために学校を建て、組織を作り、辛苦をいとわず働いた。それが今の私たちの生活基盤となった。そんな素晴らしい財産を残してくれた彼らに、私たちはまだ、再び故郷の地を踏ませられないままでいる。それが一朝一夕に実現できないことならば、せめて異国の地ででも限られた時間を活きいきと生きてほしい。そのような想いから、今春の介護保険制度開始に向けて、長年地域のウリハッキョ運営に携わってきたSさんが介護支援センターを設立した。

 1世同胞にも民族の生活習慣やウリマルを使って対応できるようにと、スタッフの約半数が同胞だ。Sさんの思いに共感した介護資格者が、所属や立場を越えて共に活躍している。

 事業エリアである大阪・生野区、東成区、東大阪市の在日同胞の密集地では、住み慣れたトンネを離れたくないとの理由から、転出した家族と離れて暮らす独居老人も多い。また、高齢者の中には、朝鮮語も日本語も読み書きが不自由な人がおり、介護保険について正確な情報が伝わっていない。行政への不信感や、身内の介護は「ミョヌリ(嫁)」がするもの、という旧来の考え方から介護サービスの利用に消極的な人も多い。

 これまでSさんらスタッフが要介護認定申請のため訪問した先には、高齢者が高齢者を介護する「老老介護」や、介護に追われて途方に暮れる家族の姿など、厳しい現実があった。身よりもなく、不自由な体で貧しく暮らすハルモニを見るに見かねて、近所の同胞女性が相談にやってきたこともある。そして、日本人高齢者への訪問調査から戻ると、「朝鮮人が私の家に入ってきた」と苦情の電話がかかってきたことも。

 無年金問題、2世、3世の世代交代による家族間の乖離(かいり)…。同胞高齢者問題は、介護の問題だけでなく様々な問題が複雑に絡み合っている。それらを、同胞組織、地域の行政、人々と協力しながら、一つひとつ解きほぐし、解決していく。根気のいる地味な事業である。だけども、Sさんらの後ろには、熱い思いを寄せて支援する同胞と日本人のサポーターがたくさんいることが、何とも心強い。

 60を目前に一念発起したSさんを見て、私には1世同胞たちにどんな恩返しができるのだろうかと考えている。(兵庫県在住・フリーライター)

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