近代朝鮮の開拓者/芸術家(9)
李応魯(リ ウンロ)
李応魯(1904〜88年) 号は顧菴。20歳で金圭鎮に入門、35歳で日本へ留学の後、パリで西洋画を究める。64歳の時、南朝鮮の中央情報部に拉致され、その後、民主化を求める民衆の熱望を具体化する新しい水墨画を確立する。 |
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東洋画と西洋画の連結/変転してやまない画風
これまで、近代の西洋画と東洋画(朝鮮画)の代表者を何人か紹介してきたが、それでは、この2つは相対立したままであったのか。
伝統画と西洋画は異質なものであって、この2つの統一は不可能なのであろうか。
ここに紹介する李応魯こそ、80年の生涯を通じて変転していったその画風の中で、いつの間にか2つの画風の統一ばかりか、近代朝鮮画より出発して、現代ヨーロッパ人も感嘆してやまなかった超モダンな現代的画風にまで突き抜けてしまった人なのである。
彼の画風の変転と最後に到達した画風の含む「政治的」表現は、困難に満ちた生涯の反映であるといえる。
1924年、20歳の時、画家としての道を切り開きたいという思いで、忠清南道洪城の家を飛び出し、ソウルに出た彼は、伝統的な四君子(蘭、竹、梅、菊)画家として有名な海岡・金圭鎮の噂を聞き、彼に頼み込んで徒弟となった。
2年後、看板屋の従業員となり、後に独立、生活の安定を得た。
ところが絵が伸びない。悩んだ末、看板屋を辞め、東京留学を決意する。38年、35歳の時であった。
これが彼の芸術的な生涯の決定的な契機となった。
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日本では斬新な南宗画家として知られる松林桂月の指導を受け、西洋画の新人が通う川端画学校で学び、本郷絵画研究所にも出入りした。ここで西洋画法の写実主義を水墨彩色の画面に取り入れる研究をしたのである。朝鮮解放直前まで東京で新聞販売店を経営しながら「鮮展」に出品し、入選を繰り返した。45年3月、戦火をさけて帰郷した彼は解放を迎える。
解放後は政治の季節に背を向け、創作は写実主義の水墨画から、次第に「自然の事物に対する写意的表現」となり、その運筆はますます奔放自在となっていく。
そして58年、彼はさらなる飛躍を求めてパリへと向かうのである。絵具さえ買えない貧困の中で、彼はかつてピカソらが始めたコラージュ(古新聞や写真などの破片を画面に貼り付ける)の手法を取り入れ、抽象化していく。東洋の伝統に基づきながら「西欧形式の東洋的消化」は、人々に新鮮な感動を与えた。
67年、彼は不意に南の中央情報部に拉致(らち)され、2年間の獄中生活(東ベルリン事件)を送る羽目になった。
出獄後の彼の画風はさらに激変していく。墨で描かれた画面に数十、数百の律動する人々の群れ、それはまさしく光州の、ソウルの学生たちの、圧制者に対する反抗の群れなのであった。
(金哲央、朝鮮大学校講師)