わがまち・ウリトンネ(53)
千葉・習志野(2)
1斗缶背負い東京まで売りに/水あめ作りがブーム
習志野分会事務所
習志野トンネは以前、前原トンネと呼ばれていた。同胞たちが集まって住んでいたのが船橋市の前原町だったからだ。1世の中には、今でも前原トンネと呼ぶ人が少なくない。今では同胞たちが散らばって暮らすためほとんど使われなくなったが、現在も分会事務所がある。
トンネの由来を話す韓在益さん
では、なぜ前原に同胞が大勢住むようになったのか。
「ある同胞がここで養鶏場をやっていてね。そこに同胞たちが住むようになって、長屋のようになったんです」
朝鮮解放(1945年8月15日)後から前原に住み、トンネの歴史に詳しい70代のAさんは言う。前原の同胞は40年代後半から、主に水あめ作りを行っていた。
「この辺ではさつま芋を多く作っていて、そこから出るデンプンを利用しました。大きな釜にたくさん作って1斗缶に入れ、それを背負って、浅草あたりの問屋まで運んでいきました」
許玉子さん(72)もそのことをよく覚えている。
「申さんという人が作り方を覚えて来て、それが広まったのだと思います。あの頃、東京の錦糸町にあめ屋がずらっと並んでいて、持っていけばいくらでも売れました。1斗缶を背負う時、そのままでは熱いので、タライに水を入れ、さましたものです」
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メ モ 水あめはデンプンに麦芽の酵素を加えて糖化させて作る。もち米から作る淡黄色で透明なものが良品。だが、当時、そのような高級品を同胞たちが手に入れられるはずもなく、材料はさつま芋のデンプンに限られていた。敗戦後の食糧難の中で、日本各地では土地さえあれば簡単に作れるさつま芋を作って食糧にした。48年頃から、いもを使ってのあめ作りが盛んになった。当時、東京・上野にあるアメヤ横町ではいもあめが作られていたとの記録がある。ちなみに97年の千葉県のさつま芋生産量は15万4300トン、うちデンプン用は9801トンである。 |
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同胞たちはデンプンを利用して焼酎も作った。
「残ったデンプンの灰汁をとって、麹(こうじ)を入れて焼酎を作るんです。少しも無駄にしませんでした」と許さん。
一時、同胞の間でブームになった水あめ作り。だが、「統制品だったので、作る人も自然に少なくなっていった」とある同胞は話す。(文聖姫記者)