それぞれの四季
「歴史の中の女性たち」
百済永継(下)/尹美恵くだらのえいけい
摂関家として「王権」に対抗する存在となった藤原北家。その北家興隆のキャスティングボードを握った百済永継は、百済王明信と同じく百済王の流れをくむが、明信とは系譜を異にする。
百済王氏が第31代義慈王の子善光(631年に渡来)を始祖とするのに対し、永継は「日本書紀」によると第21代蓋鹵王の弟の昆支王(461年に渡来)を始祖とする。昆支王の子孫は、河内国安宿郡(現在の大阪府羽曳野市・柏原市あたり)を本拠地として繁栄したが、この河内飛鳥には今も飛鳥戸神社が鎮座し、祭神を百済昆支王とする。また、近辺には蘇我氏系の大王の陵墓も点在している。
永継の二男藤原冬嗣の娘順子は、仁明天皇との間に文徳天皇をもうけ、文徳は順子の兄良房の娘明子との間に清和天皇をもうけている。つまり、清和は父方にも母方にも永継、ひいては昆支王の血が流れていることになる。そのためか、清和即位の翌年、人臣初の摂政となった外戚良房の意向でもあろうが、それまで無位だった飛鳥戸神社に正四位下が授位されている。
しかし、時代は下り、藤原氏に代表される貴族政治は終焉を迎え、代わって武士が歴史の表舞台に躍り出る。この時河内飛鳥は、河内源氏の本拠地となった。
河内源氏は清和天皇を祖とする清和源氏の流れで、とりわけ武門の誉れとして名高い八幡太郎義家が大活躍する。以後、「武士の長者」としての河内源氏が源氏の本流となり、1192年にはその末裔頼朝が鎌倉幕府を開く。
義家の弟新羅三郎義光は、東国に赴き、甲斐源氏の祖となった。 (歴史研究者)