わがまち・ウリトンネ(58)
大阪・猪飼野(3)
トンネの長老の1人、張澤煥さん(80)の話から、なぜ大阪に済州島出身者が多く住むようになったかの大枠が見えてきた。日本の植民地支配により生きる糧(かて)を求めて、猪飼野の零細工場に出稼ぎに来て、そのまま住み着いたからだ。
「彼らは故郷の先輩などの紹介で、出身地別にかたまって、特定業種の工場で働いた。例えば、南済州郡西帰邑法還里の人はゴム工場、北済州郡旧左面杏源里の人は印刷工場、北済州郡朝天面北村里の人は真ちゅう(黄銅)を溶かす製鉄所、済州市道頭里の人はイモの加工工場などといったぐあいに。また、日本の資本家が職工募集のため、済州島に募集人を派遣することもあった」(張さん)
1910年代に入り猪飼野は、郊外に進出した中小企業の労働者たちの住宅地として造成されていった。今もこの地域によく見られる2階建ての2軒続きの長屋や、平屋の6軒続きの長屋などが多数建つようになる。
住居や中小の工場が著しく増加したのは、第1次世界大戦(14〜18年)後である。そして同胞らは鉄、ガラス、ゴム、メリヤス、歯ブラシ製造などの零細工場に、低賃金労働者として雇われるようになった。解放前、日本に渡ってきた同胞の多くは、土工や炭坑夫、砂利人夫として働いたが、大阪に限ってみると、零細工場の労働者が圧倒的であった。
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メ モ 30年12月現在、大阪府下の工場で働く同胞は約2万3000人にのぼった。内訳はガラス、紡績、メリヤス、金属、ゴム工業の順になっている(「大阪府社会事業年報・1931年」参照)。 |
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張さんは、「済州島は農地が少ない。生計を立てるために、日本にまで来て、低賃金と悪条件の労働環境に耐えながら、黙々と働くしかなかった」と語る。
その結果、34年には済州島の総人口の25%(約5万人)が渡日するまでになった。
済州島はもともと米の生産量は少なく、ヒエやアワなどを多食していたが、植民地支配した日本人に土地を収奪され、人々はそれらの雑穀すら食べられない状況に追いやられた。また水産業は、1907年頃から日本の漁船、とくに北九州、中国地方の漁船が済州島近海に出没。朝鮮屈指の漁場までもが奪われることになった。そのため彼らは日本が低賃金労働者を必要とする時期、その規模に応じて、日本に引き出されるようにして渡ってきたのだ。
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メ モ 解放前、鉄、ガラス、ゴム、メリヤスなどの零細工場で多くの同胞が働いたことから、生野区では現在、ヘップやプラスチックなどの中小企業を営む同胞が多い。 |
(羅基哲記者)