朝鮮人の生活と人権

自身の問題として地域で取り組んだ
故・末本徹夫さん(元京都市議)


在日の住みやすい社会は、日本人にとっても快適=@

  長年、朝・日友好に尽くしてきた元社会党の京都市議、末本徹夫さんが1月26日に永眠した。80歳だった。3月26日、京都の人士ら約400人が故人をしのんで開いた「お別れの集い」では故人の遺志として、京都府内の朝鮮学校を運営する学校法人京都朝鮮学園と高麗美術館に遺族から100万円ずつが贈られた。「生涯青春・生涯現役」が信条だった「朝鮮人民の真の友人」(総聯京都府本部常任委員会の弔電より)は、京都の在日朝鮮人の心の中にいつまでも生き続けるだろう。

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 「遺言があったわけではない。ただ、朝鮮学校のことは徹夫さんが生涯やってきたこと。今までも少しずつはやっていたし、生きていれば必ずやり続けていたと思う。その志、気持ちを差し上げただけ」

 人生を共に歩み、自らも日朝友好促進京都婦人会議の事務局長として朝・日友好に心を砕いてきた故人の愛妻、雛子さん(75)は語る。知り合ったのはお互い大学生の頃だ。結婚の時、「朝鮮のことと部落の問題は一生やるから」と宣言された、と笑う。

 徹夫さんの朝鮮との出会いは、旧制第四高校時代にさかのぼる。同じ寮にいた朝鮮人生徒と親しくなり、彼らの秘密の勉強会に誘われる。日本が朝鮮を植民地にしていた時代。そこでは朝鮮独立への熱い思いが語られていた。その友人はボートの練習中、琵琶湖で命を落とすことになる。

 さらに、京都大学在学中に招集され赴いた南方の激戦地で、軍隊内における朝鮮人、部落民差別の激しさ、軍隊の持つ非人間性に触れた。以来、反戦・平和と人権を一生のテーマにしようと誓う。

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 その後、地方自治と行政学を学んだ大学院在学中から11期44年間、京都市議を務めた。国政への誘いもあったが、地域からの運動にこだわった。そして市議として、在日朝鮮人問題は「単に支援をしてあげる、生活権を擁護してあげるということではなく、歴史的経緯も踏まえ日本人である自分自身の問題だ」(著書「朝鮮と私」より)と、重点的にアプローチしてきた。

 1953年の京都朝鮮学園の学校法人認可に始まり、京都朝鮮中高級学校の校舎建設のために奔走したのをはじめ、帰国運動や外国人登録法是正運動、朝鮮学校に対する補助金支給要求、年金差別撤廃など、在日朝鮮人の人権とかかわるあらゆる問題の解決のために尽力した。市議在職中、在日朝鮮人問題と関連して自ら起草し市議会で決議、採択させた決議文だけでも10近くになる。

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 一方、朝鮮には1960、82、84、91年の4回訪れており、地方からの朝・日友好に献身してきた。昨年12月、村山富市元首相を団長とする超党派議員代表団が訪朝したニュースを聞きながら、「20世紀に起きた朝鮮と日本の不幸な関係を20世紀のうちに解決したい。朝鮮問題は日本人自身の問題だと言い続けてきた私としては、そのためにもぜひもう1度共和国を訪ねたいと強く感じる今日この頃である」と最後に記した文章が遺稿となった。

 「よく朝鮮の方に感謝されるが、そうではない。自分のためにやっていること。日本人の問題だ。民族教育が保障され、在日朝鮮人が住みやすい社会は、私たち日本人にとっても快適な社会のはずだ。お金は使い方。生活が楽なわけではないが、朝鮮への水害支援など、これからもできる限り続けていきたい」(雛子さん)   (韓東賢記者)

故人の寄付金、形にして残したい

  「お別れの会」で京都朝鮮学園を代表して寄付金を受け取った鄭敏雄・京都府教育会会長の話

 簡単に100万円というが小さい金額ではない。それも日本人が朝鮮学校に寄付するのだから…。熱いものを感じ、伝達の時はとても緊張した。末本さんは京都府、京都市が朝鮮学校に補助金を出すよう求める運動の功労者だ。もちろんそれだけではない。

  在日同胞のあらゆる問題解決に率先して協力してくれた。そんな末本さんを私たちは頼ってきた。しかし感謝すると彼は「これは日本人自身の問題。あなたたちのためでなく、自分の信念でやっていること」だといつも答えた。

  寄付金の使い道については各校長らと検討中だが、故人の遺志を尊重し、無駄にしないよう教材や備品として形にして残したい。関係者らはみんなとても喜び、感動している。それにしても、京都の朝・日友好運動の伝統を築き上げた惜しい人をなくしたと思う。

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