ざいにち発コリアン社会

朝鮮半島、日本、世界に虹の橋をかけたい
同胞ミュージシャンの朴保さん


  21日に東京で行われる総聯結成45周年記念在日同胞大祝典に出演する在日同胞ミュージシャン、朴保さんに話を聞いた。3月末には南朝鮮のベテラン・バンド、新村ブルースの嚴仁浩と共同制作したアルバム「時は流れる」が発売された。嚴は朴に出会った時のことを「彼の音楽には、ロックやレゲエのほかに朝鮮半島の伝統音楽なども混ざっていたので、自国の伝統音楽に興味を持たずにブルースをやっていた自分が何か恥ずかしいような気がした」と話している(「ミュージック・マガジン」4月号)。

自分だけの自然体の音楽
「在日」であることがバネに

反対押し切り本名に

 ずっと日本の学校だった。学校では広瀬保、家では朴保と自然に使い分け、自分の民族的アイデンティティについてあまり深く考えていなかった。ただ、力道山を応援したり、オリンピックなんかでは南北朝鮮を応援したり、そんな感じ。親戚には朝鮮学校の先生もいたし、総聯の大会に参加したり朝鮮学校に遊びに行ったこともある。

  社会問題が好きで色々と教えてくれた父はパチンコ屋、車の解体業、固形燃料の工場、焼肉屋と商売を代えていった、ある意味では典型的な在日。母は日本人だ。

 小学校5年の時、ベンチャーズのコピーバンドでギターを弾いていた2つ年上の兄の誘いでドラムを始めた。中学の後半くらいから歌い始め、高校に入った頃に兄にギターを教わり、作曲もするようになった。大学時代もバンド三昧。サークルの先輩にはプロのミュージシャンがたくさんいた。彼らの協力もあって79年、広瀬友剛という名でデビューすることになった。

 デビュー曲は、南朝鮮の大物作曲家ソン・チャンシによる「ウエブロ」という曲。でもレコード会社は僕がコリアンということはまったく知らなかったのだから、今思えば運命的な出会いだと思う。

 デビュー翌年、ソンさんが僕をソウルに呼んでくれた。その時初めて行ったんだけど、僕の中に眠っていたものが一気に出てきた感じだった。それまで欧米の音楽ばかり追っていたが、自分はどこの誰なんだろうって。それで日本に帰ったら本名の「朴保」でやるんだと決めた。芸能界には在日同胞が多いのに本名を名乗っている人はいない。じゃ、自分がやるかって。事務所には反対されたが、僕の意思は固かった。

オリジナリティーを

 本名を名乗り在日であることを公言するようになると、色々な運動団体から様々な集会に呼ばれるようになった。素直にうれしかった。

 そうしたなかで出会った人に誘われ83年に渡米。それから約10年間、サンフランシスコを拠点に音楽活動をした。そこには世界中から来た様々な人がいた。そのなかでは自分らしさが求められる。とくにネイティブ・アメリカンとの付き合いのなかで、僕も自然と自分のルーツに立ち向かわざるをえなくなった。

 そして自分にしかできないことを探すことになる。例えば老人ホームのような場所やコリアンのコミュニティーなどに呼ばれて観客にリクエストされるなかで、改めて自分のルーツミュージュックとも言える朝鮮半島の民謡と出会った。

 それを次はクラブで演奏する時に持ち込んだ。あの頃好きだったレゲエとミックスしたのでエイジアン・レゲエとか言われたが、それがすごく受けた。

 米国でやっていくにはオリジナリティー、つまり「自分」が必要だ。この時に生きたのが、渡米前にソウルでパンソリなどの伝統音楽を学んだ経験だ。

楽しんでもらいたい

 僕の場合、自分が朴保としてやっていることそれ自体が生きるバネ、音楽を続けるバネになっている。それがあるから米国でもやれたし、今もミュージシャンを続けられている。在日であることは、きっとこれからはプラスになっていくと思う。もっと誇りを持って、前向きに生きて行ける社会にしていきたい。

 今回、嚴仁浩と一緒に作ったアルバムの一曲目「もう止めにしておくれ」は、以前ピビンパクラブというバンドで日本語で歌っていた曲だ。約20年前、ソウルに民族音楽の勉強に行ってきた直後に作った曲で、リズムが完全に朝鮮半島のリズムだから、今回、朝鮮語で歌ってみる 
と、やっぱりしっくり行った。

 2年にも及ぶ今思えば贅沢なレコーディングだった。苦労もしたが出会いも多く、とても楽しかった。こうやって交流が深まって行くのはとてもいいことだ。

 一方、首脳会談開催で合意もしたし、南北も徐々に近付いていると思う。まず僕らの中から、お互いに交流を持つ機会を増やすのが大切だろう。僕の場合、呼ばれたら拒まずにどこにでも出て行くのがまず1つだと思う。色々な意味で、在日の役割はますます大きくなるだろう。

 ミュージシャンとして目指しているのは自然体の音楽だ。今の空気が自然に出ていて、そして自分のアイデンティティ、メッセージがあるもの。それを、僕なりのやり方で、みんなが楽しんでもらえる形でやりたい。南北朝鮮、日本、米国…、色々なところに虹の橋をかけながら。そしていつかみんなで一緒に平壌にもソウルにも行きたいね。
(韓東賢記者)

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