近代朝鮮の開拓者/文化人(5

安昌浩(アン チャンホ)


 
人・ 物・ 紹・ 介

 安昌浩(1878〜1938年)1897年に「独立協会」に加入。平壌で活動し、1902年米国に留学した後,、抗日救国運動を展開する。10年、再度米国に渡り「興士団」を組織した後、亡命先の上海で日本の警察に逮捕され38年に病死する。


民族・自主を求めて活動/上海で大同団結を呼びかける

 安昌浩は、平壌といっても大同江の下流の大きな島、豆楼島の農家の出身であるが、なぜ今も昔も南の人々に人気があるのであろうか。それは風采が堂々としていて、彼の話が実践的で理論的な根拠に基づいているからではないか。

 彼はまず、抗日運動のため秘密結社「新民会」の組織と共に、民族独立の基本的な力を蓄えようと人々に訴え、人材を養成する「大成学校」の設立、少年たちの愛国心を養うための雑誌「少年」発刊、出版会社 大極書館 の運営、民族産業育成を目的とした 磁器会社 の設立など、目に見える事業を展開していった。

 次に彼は優れた知力と、それを表現する理路整然たる熱弁によって、人々に民族独立への道を具体的に解りやすく展望してみせたのである。

 彼は幼い時、当時の風習にしたがって書堂に通ったのであるが、幸いにも漢学と共に良い先輩に恵まれて新時代の思想に触れることができた。17歳の時、ソウルに上京。キリスト教徒の経営する救世学堂に入学し、信者になる。

 同時に、徐載弼らの始めた「独立協会」に加入した後、平壌で学堂の支部を作り、ソウルと同様に討論を通して旧制度を批判し、人々を啓もうするため「万民共同会」を開催して、「新しい時代がやって来たのだ。新しい時代にあう努力をしよう」と訴え、人々の共感を呼び起こしたのである。

 彼の活動と思考に大きな影響を与えたのは、1902年、新婚の妻と共に米国に留学したことであろう。教育学を学び国民を目覚めさせる教育者になろうと決意し、サンフランシスコで昼は働き、夜間学校で勉強を続けた。

 そこは封建的な身分制度から解放された様々な国の人々が生活していて、実際に役立つ知識を身につけ一生懸命努力を続ければ、必ず成功のチャンスが来るのだという「夢」に満ちあふれた社会であった。

 彼はそこで「韓人共立協会」(後に「国民会」)を作り、「共立新聞」を刊行して啓もうと団結をはかっていった。

 彼は日露戦争後の1906年に帰国し、抗日と救国のため果敢に運動を展開していった。民族の革新のために国土・社会・生活・精神の4つの改造など、運動の目標を明確に掲げ、人々に明るい展望を与えたことが特徴と
いえよう。

(日露戦争に参加するため仁川に上陸する日本軍)


 日本帝国主義の弾圧が強化される中、亡命先の上海で逮捕され、38年病死する。 (金哲央、朝鮮大学校講師)

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