「17歳の凶行」(上)/ 慎栄根
「制御不可能」にした社会的反省の欠如
子供らの価値観とぶつかり合う事が大事
中学生のグループが誘拐事件の身代金にも匹敵する巨額のお金を同級生から脅し取っていたと言う衝撃から醒める間もなく、今度は人々を驚がくさせるショッキングな殺人事件が先の連休中にまたしても若者の手によって連続して引き起こされた。 3年前の神戸での事件と同じく人々の理解をはるかに超えた一連の「17歳の凶行」は、すでにバラバラ殺人や通り魔殺人に慣れっこになっている我々をあらためて戦りつさせるに十分な内容であった。 それは犯行の動機があまりにも常軌を逸しているからだけではなく、彼らが持っているある種の狂気や異常性が若者たちの間に果てしなく広がっているのではないかという底知れぬ恐怖と不安を人々に与えたからである。 実際犯人の少年たちは、いずれもいわゆる不良グループの一員ではなくむしろ勉学などにおいては 優等生 としての面を持っていたとされている。ではなぜ、バスジャック事件以後も各地でせきを切ったように殺人や暴力事件が相次いで起きているのであろうか。 青少年を取り巻くこの様な状況を見るにつけ私は、自ら教育心理学を研究する者として、また子を持つ父親として「この国で子供を育てること」の難しさを痛感せざるを得ない。 なぜなら子供たちに対するこの様な「モンスター扱い」が彼らの行動の「許容範囲」を広げてきたのであり、同時に彼らをある意味で「制御不可能」にしたのはほかならぬ大人たちであるという事実に関する社会的な反省が無いばかりか、むしろそれを助長しようとしているからである。 確かに、大人や社会をナメきった若者たちの許されざる犯罪に対しては断固たる責任をとらせるべきであるし、またそれによって次なる犯罪を防止する効果が上がることは確実であろう。しかし問題の本質は、彼らをムチなしでは放置できない「危険な存在」にしないという事であり、懲罰をもって「実行を思い止まらせる」以前に、「犯行の衝動」自体を摘み取るという事である。そのためには大人たちが、若者たちの「理解不可能さ」を口実にすることなく信念を持って「口出し」し、彼らの価値観とぶつかり合う事が必要であるが、「個性重視」の名のもとに個人主義が生活のすべてを覆いつくしてしまっている今日の日本社会においては、実の親でさえ子供の価値観に入り込む余地がなく、また入り込もうとすらしないのが現状である。 言うまでもないが 若者は生まれつき理解不能な存在ではない。成長過程で彼らがスポンジのように吸収していったものが今日の若者を作り上げたのである。大人を信じ、両親に頼り切っていた幼児期からわずか10年ほどの間に彼らを人間不信や攻撃性のうず巻く救いようの無い闇の中に迷い込ませた原因とその責任は大人の側にあると言う事を自覚せず、ただ闇雲に若者を厳しく罰するだけでは問題は解決しないのである。 連日、大見出しで青少年犯罪を報道する新聞の同じ紙面に痛ましい児童虐待や保険金目当ての身内殺人、警察による組織ぐるみの不祥事など「大人による衝撃的な事件」の記事がところ狭しと並んでいる状況は、若者の犯罪が決して独立して起こっている物ではないと言うことを雄弁に物語っている。 私には、頻発する青少年の犯行が、これほど十分な反省材料を前にしながらただ若者の変ぼうぶりのみを問題視している大人たちの「無責任さ」に対する告発であり、怒りのメッセージであるように思えてならない。と、同時に大人たちの意識が変わり、日本社会の現状が変わらないかぎり、若者たちの心の闇は今後も広がり続けることは否定出来ない。そういう国で我々は子育てをしているのである。 (シン・ヨングン、朝鮮大学校教育学部教員) |