この人と語る

歴史の闇を照らす揺るぎない人間性
150時間にわたる深く長い対話

新聞記者 天野弘幹


 ――高知新聞の連載、 「流転ーその罪だれが償うか」は現在33歳の若い新聞記者、天野さんと元731部隊員・尾原竹善さんとの永く深い対話によって生まれたものですね。尾原さんの 封印された過去 の記憶の扉を開くことになった丹念な取材と何よりも人の心のひだの奥に潜むかすかな声を聞き取ろうとする姿勢が印象的でした。

 ● 731部隊員の戦後の生き方はさまざま。医学界、官界のエリートとして復帰し、生きた者。ひっそりと隠れるように生きた者。尾原さんは後者の1人だったのです。尾原さんは戦後、自らが犯した罪の重圧に苦しむ。名前を変え、各地を転々と暮らす日々。しかし、どこへ逃げても尾原さんは部隊の悪夢にうなされ続ける。目を背けようにしても、背けられない苦しみ。その罪を許さなかったのが、何より尾原さん自身だったように思う。流転し続けた尾原さんの人生は私たちに何を問い掛けているのかと…。「戦争とは何か。誰が加害者であり、誰が被害者なのか。誰がその罪を裁き、誰がその罪を責め、誰がその罪を償うのか。どうすれば人の憎しみは消えるのか。人はどうすれば、そよ風のように優しい存在になれるのか」。この新聞連載の第1回で私はそう書きましたが、その中には尾原さんがどうすれば悪い夢を見ずにすむようになれるのか、という思いがありました。

 ――その胸中に迫るため、高知から車で1時間ほどの山間の村に暮らす尾原さん宅を50回以上も訪ね、対話を重ねていく姿に深い感銘を受けました。

 ● 自分は戦争世代でないから反省もしないし責任もないと言う人がいます。しかし、私たちは先達たちが作りあげた社会に生きています。正の遺産を享受する一方で、負の遺産はいや、と言えるのか。尾原さんの言葉に耳を傾けることは、単に歴史の一断面を知ることにとどまらず、自らの精神と対峙することにほかならない。それは決して自虐的うんぬんなどとは次元の異なる話です。尾原さんが自己の心に忠実になろうとした、あるいは娘の牧子さんが父の行為を知ることによって歴史を学ぼうとし、そして父を理解することによって自らと向き合おうと決意した、それと同じ姿勢が、今求められているのではないでしょうか。

 ――尾原さんは「731部隊」における生々しい人体実験の様子を克明に語っています。「同じ人間になしてそんなことをせにゃあいかんのか。おかしい思うた」と尾原さん。しかし、天野さんが「人間らしい感覚を失いかけたのはいつ頃だったんでしょう」とさらに問う。非常に緊迫した場面でした。

 ● 731部隊がやったことは、もはや 実験 ではなく虐殺です。尿や馬の血液を人間に注射するとどうなるか。乾燥機にかけるとどうなるか。1人の人間からどれだけ血液を絞りとれるか。遠心分離機に入れて高速で回転させるとどうなるか。女性の生殖器をひっかき回す。縦に並ばせて、銃弾が何人目まで貫通するか。それがいつのまにか尾原さんの心もあきらめの気持ちに支配されていったようです。

 「ためらう素振りを見せたらおしまいになる。いずれ戦争が終わるまで。今を生き延びるため。それしか思わんなった。もうまひしちょったんじゃ。私の心は」。尾原さんは炭疽菌の培養を担い、人体実験で大勢の人がもがきながら死んでいくのを見ている。今でも中国、朝鮮の人々の苦悶の様子が脳みそに焼きついて、頭にこびりついていて、「よう忘れんの」と語る。そして「上官の命令じゃった。仕方なかった」と度々この言葉を口にする尾原さん。しかし、取材の途中から私はその言葉が誰かに責任を転嫁するために言っているのではないことに、途中から気づいた。そう口にすることで尾原さんは自分自身を責めている。ためらいのかけらを見せず、上官に従った自分を責め続けている、そう思えたのです。

 ――そして、具体的な父の過去を何1つ知らぬ彼の娘と共にハルビンと人体実験場跡・安達(アンダー)への償いの旅行にも同行されました。

 ● 出会った現地の人々から激しい非難を受けました。「私たち中国の戦後世代は、親から怒りや悲しみを受け継いでいる。このままでいいのか」と。そして尾原さんはこの怒りを受け止めた。「けんど、それでよかったと私は思います。怒るが本当じゃもん。許せんというのが本当じゃもん。(人体実験の)夢は消えることはない。けれど旅にいってねえ、本当によかった。…今までの人生で…今が一番安らかな時です…」。

 結局、尾原さんのつらい夢は消えることがありませんでした。しかし、かつての虐殺の場は、私たちが訪れた時、どこまでも広がる緑の草原に変わっていました。ここで尾原さんは犠牲者に捧げる白い花を見つけた。彼の人生はその花を探すことだった。そして、逆に尾原さんに花をさしのべ、心の傷をいやしてくれたのも、逃げたはずの安達の草原だったのです。私たちは尾原さんのように苦い過去を見つめ、自分の心と真しに向き合っているだろうか。戦争責任の問題も国家と個人の問題も、まだ決着はついていない。そう思います。(注・731部隊=残虐な人体実験と生物化学兵器戦実行で知られる。生きたまま臓器を取り出したこともあった。日本の憲兵隊などが罪のない朝鮮人、中国人を捕まえ731部隊に送り込んだ。それは実験というよりも虐殺そのものだった。犠牲者は3000人以上に上り、生存者はいない。)

「流転―その罪だれが償うか 元731部隊員の戦中」

 定価=1900円+税、高知新聞社、高知市本町3―2―15、TEL 088・825・4330

 

 


素顔にふれて

心の奥の声に耳を傾けて

 新聞記者はまず、入社すると先輩から諭される。

 「記者は足で稼げ」と。

 これを地でいく社会部記者というのは、何となく猛者のような印象を抱くのであるが、天野さんは違った。文章と同じ様に、あくまでも穏やかで、心優しい好青年。この人があの残虐極まりない、731部隊関連の記事を高知新聞に連載し、日本ジャーナリスト会議(JCJ)賞を受賞したのか、とまず驚く。

 この新聞連載はいわば、天野さんと元731部隊員・尾原竹善さんとの果てしない対話がベースになっている。天野さんが尾原さんを訪ねたのが約50回。1回につき2〜3時間、話をじっくり聞いた。その結果、「聞き手が語りを共有してくれるという安心感」が尾原さんの心に刻まれたのだろう。そうして明らかにされていった、あまりにも衝撃的な事実の数々。

 尾原さんの足跡は――。1939年に徴兵され、42年3月に関東軍、731部隊に転送された。戦争犯罪組織、731部隊の隊員だったため、45年9月、いち早く高知の故郷に帰ることができた。だが、帰国後、逮捕、軍事裁判を恐れ、山に隠れて炭焼きをし、57年からは関西・中国地方で路線工夫などの出稼ぎ労働を続けてきた。彼の心は日本社会の中で、なお、敗残兵のそれであり続けたのである。そんな彼が94年2月、高知市で開かれた「731部隊展」に吸い寄せられるように近づき、かつての人体実験の証言をする。そして、天野さんとの出会いが始まったのだった。長い間記憶の淵に沈めてきたものを、歴史の闇を照らす貴重な証言として蘇らせたもの、それは語り手、尾原さん、天野さんの人間性への揺るぎない信頼感であった。  (朴日粉記者)

プロフィール

  1967年、香川県高松市生まれ。89年同志社大学卒業。同年、高知新聞社入社。著書に「流転―その罪だれが償うか 元731部隊員の戦中」「脳死移植―今こそ考えるべきこと」(高知新聞社会部取材班)など。

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