語り継ごう、20世紀の物語

愛しても尽くしても見返りを求めぬピュアな心

金順煕さん(81)


「万事休す」玄界難で、「ポンポン船」がひっくり返る 

 「なにを恨もか 国さえ亡ぶ/家の滅ぶに 不思議ない/運ぶばかりで 帰しちゃくれぬ/連絡船は 地獄船」――この歌は、解放前の1937年に流行した 連絡船は出ていく の替歌である。当時の朝鮮人にとっては、旅情を駆り立てる連絡船は、まさしく奴隷船であった。

 東京都足立区に住む金順さん(81)もこの地獄船に乗って、13歳の時、済州道から大阪に来た。貧困の暮らしから抜け出したい一心で、叔父と共に島を出た。

 泉大津の近郊の紡績工場で、早朝4時から午後2時まで、タダ同然の重労働を7年間強いられた。日本人労働者の約半分の労賃の上に、現場監督からピンハネされ、手元にはいくらも残らなかった。

 そんな暮らしの中でも、青春の輝きがあった。大阪市内に住む叔父宅で同郷の文景南さん(87)に出会い、見初められたのだ。2人が所帯を持ったのは、まさに日本が太平洋戦争に突入した1941年。夫は28歳、妻は22歳だった。

 日本の敗色が決定的となった45年になると大阪でも空襲が始まった。あちこちが焼け野原となり、阿鼻叫喚の地獄図が広がった。文さんは妻子を助けたい一心で、大分の山村に疎開させた。やがて、日本が敗れ祖国が解放された。

 そこで妻と長女、次女だけまず故郷・済州道に帰ることになり、知り合いの人たちと別府の港から「ポンポン船」に乗り込んだ。十数人も乗ればいっぱいの小船はやがて玄界灘の大波にさらわれ、ひっくり返された。

 「どうして無事に生きていられるのか、今も信じられない」と語る金さん。

 「万事休すの思いをした」悪夢はあれから半世紀が過ぎても脳裏から離れない。

 それからしばらくして大阪に戻った。暮らしを再建するために夫と共に1949年、東京・足立区に居を移した。朝鮮総聯の結成後、足立支部委員長として多忙な日々を送る夫を支え、また23年間、女性同盟本木7分会の分会長としての活動を続けた。愛国事業に東奔西走し 生活費を家に入れたことがない と正直に話す文さん。しかし、妻は一言の不満も漏らさず、黙々と7人家族の生活を切り盛りした。農村に出かけポタリチャンサ(行商)をしたり、内職に精を出した。

コツコツお金を貯め、祖国に水害支援100万円送る

 「よそにはテレビがあるのに、家(うち)にはない。正月が来ても子供にお年玉をやることができなかった」。

 そんな苦しい台所事情だったが、分会長としての仕事に汗を流した。リヤカーを引き、廃品回収をしたり、ゴマ油やワカメを売ってコツコツお金を貯めた。そうして集めた100万円を分会の事務所を建てる費用として差し出した。

 静かな淡々とした口調。それが熱をおびた時があった。「分会長の一番の思い出? それはね、女性同盟なんて入りたくない、と会いにいった同胞女性に玄関払いされた時だった。悔しかったよ。それから毎日、訪ねて行って3ヵ月。その女性が分会長には負けましたと言って、会費を払ってくれた時だね」と話した。

 顧問になってからも、後を引き継いだ「芳順分会長(62)たちと共に祖国の水害支援に立ち上がった。95年には見舞金として100万円を送った。一方、地域の日本人との草の根交流にも熱心に取り組んだ。得意な朝鮮料理の腕を生かす料理教室を20年もの間、月1回、欠かさず開いた。近所の人たちには、キムチの漬け方を伝授したり、分けたり。かれこれ40年以上にもなる。

 ひたむきに生きた日々。ある年の暮れ、夫は支部委員長として家を空ける日が続いた。そんな時、年が越せるかどうか心配したある同胞が家に来て、「オモニ、どうぞ、これで子供たちにお年玉をあげて下さい」と、そっと1万円を置いて行った。その気持ちが嬉しくて、思い出す度に涙が出てしかたないと言う。

 二女で東京・練馬支部の文月仙女性同盟委員長(52)はオモニについてこう語る。「とにかく家はいつも同胞でごったがえしていました。オモニが寝ているのを見たことがありません。行商に出たり、冠婚葬祭を手伝ったり、同胞の相談にのったり…」。そんな忙しい時間をやりくりして、金さんは40歳過ぎに「成人学校」に通い出してウリマルの読み書きができるようになった。

 「学ぶことへの渇望は人通りではありませんでした。本当に負けず嫌いの人だと思います。ウリマルの次は日本語にも挑戦して、子供たちが寝た後に、教科書を開いてひらがなや漢字を一生懸命独学で覚えました。テレビを見ていても、あの字はどう読むのかといつも聞かれて子供心に凄いなと思いました」と月仙さん。

 今は夫と2人の静かな暮らし。白内障と足腰が弱った夫を支えるため、5時に起きて、2時間の散歩をこなし、健康に万全を期す。「いまでも娘の家の5軒分のキムチを漬けて、宅急便で送る」気丈さだ。

 5人の娘はすべて現役の活動家。孫は15人、ひ孫1人。みなが多忙な身とあっては30人以上の家族が久し振りに集うのは盆暮れだけ。月仙さんがいつのまにか女性同盟の支部委員長になったのも「両親の背中を見て育ったから」。

 「人のために何かをやることに喜びを感ずる」ことをオモニから、砂地に水が染み込むように教わったと話す。

 祖国と共に歩んだ清貧な暮らしの中で築いた確固とした幸せ。いま80歳を越えた互いをみつめてこう話す。

 「私は暮らしのことでは妻を助けることができなかった。仕事一筋で、電球の球1つも替えたことがないし、棚1つ作ったこともない。彼女がみなから慕われているとしたら、それはひとえに彼女の人柄でしょう」と夫。

 「夫が現役の頃は、顔も見たことがないほど忙しい人でした。今はずうっと顔を合わせていられて幸せです」と妻。

 愛しても尽くしても見返りを求めないピュア(純粋)な心。夫に寄り添い、共に生きた歳月を金さんは晴れやかに振り返った。 (朴日粉記者)

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