文 学 散 策

「白頭山」趙基天


抗日武装闘争の精神、世界を描いた叙事詩 

 三千万よ!

 いまはぼくもうたおう!

 老虎の怒号 地をゆるがし

 激涛 雲さえのむという

 天地の青き波もて

 この地を吹きすさぶ殺戮の風にたえ、

 焼けただれた胸をいやし 心をいやし

 幾千年も苔むした巨岩をすずりにかえ

 さび 傷める この筆もて

 敵にむかう槍のほこさきのごと みがき

 この地の名もない詩人も

 解放の この日は語ろう!

                                                  ◆          ◆

 趙基天の「白頭山」は、朝鮮文学に本格的な叙事詩というジャンルを切りひらいた最初の作品である。

 1947年の発表当時、1年間で10万部を売り尽した朝鮮出版史上のベストセラーとなったばかりでなく、その後は版を重ね、映画や交響曲(「鴨緑江」)の原作にもなっている。日本では、52年に故許南麒氏(注)の訳によってハト書房から出版されたのをはじめ、74年に太平出版社、87年にはれんが書房新社から再刊されている。まさしく、朝鮮文学を代表する名作ということができよう。


 「白頭山」は、歴史的な普天堡戦闘(1937年6月4日)を直接的な題材としているが、金日成主席の英雄的な抗日武装闘争全般についての、卓抜した文学的形象となっている。

 プロローグとエピローグは、祖国解放の恩人である金日成将軍への賛歌が格調高くうたわれており、7つの章それぞれには、命を賭して闘った若い遊撃隊員のチョルホやソクチュン、少年隊員ヨンナム、それに村娘のコップニやその父親チルソンらの祖国と民族に対する崇高な精神世界が描かれている。

 釜の中の湯は たぎればなくなる―/それは根がないからだ、/しかし 小川の水は大河を作る!/同志諸君!/われわれは 大河になろう、海になろう!/われわれの根は深く/民衆のなかに、/われわれの力は深く 大衆のなかに根ざすようにしよう!(第4章5節)

 この国を 幾重にも とりまいた その日より/新しき国のために たたかってたおれた人/そも 幾万か!/どこの峠、どこの谷の/どこの木の下、どこの石のあたりに/名もなく かれら 埋められたことか!/この地の樵夫よ/こころして木を伐れ、/われわれの先烈の霊/その木の下に寝てないと だれがいい得よう!(第5章4節)

 これらの詩的表現は、朝鮮の解放と独立が誰によって、いかにもたらされたかという、詩人の問いかけでもあったのだ。と同時に、解放とともにソビエトから帰国した詩人の、祖国における感動的な体験が産みだしたまぎれもない実感であったことだろう。

                                                   ◆          ◆ 

 詩人・趙基天は、1913年11月16日に咸鏡北道会寧郡で生まれ、幼くして家族とともにシベリアに渡り、そこからまた中央アジアに移住している。社会主義ソビエトのもとで、ゴーリキー師範大学露文科を出て教員生活を送りながら詩作をはじめているが、植民地時代の在日同胞と同じく、やはり亡国の民として流浪の悲哀をいやというほど味わっている。そんな彼にとって金日成将軍がひきいる新生朝鮮の現実は、いかに衝撃的なものであったか。

 彼は、1946年3月に帰国後の第1作「豆満江」を発表した後、水を得た魚のようにたてつづけに作品を発表し、39歳で米軍機の爆撃によって死ぬまでの6年間に5冊もの詩集を刊行している。彼の代表作をまとめた「趙基天選集(上・下巻)」は、朝鮮戦争のさなか52年に出されており、彼の葬儀は戦争中であったにもかかわらず国家葬儀委員会の名によってとり行われている。

 創作過程にまつわるエピソードについては、94年版の「朝鮮文学史・10」および、雑誌「チョリマ」(ピョンヤン、98年4月号)に詳しい。一般に叙事詩は、英雄時代の文学と呼びならわされているが、この作品はまさにわが国における英雄時代の到来を予感させるに充分なものであったといえよう。 (姜相根、朝鮮大学校外国語学部教員)

 【注】ホ・ナギ(1918〜88年)慶尚南道東莱出身。39年に日本へ渡り、日本大学・中央大学・早稲田大学で学んだ。在日朝鮮詩人の先駆的存在となして名をはせ、代表作には「火縄銃のうた」などがある。

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