女の時代へ

名作「婉という女」の舞台
「大原富枝文学館」を訪ねて


 大原富枝さんは1912年、高知県吉野村(現本山町)生まれ。尋常小学校校長の父亀次郎、母米の次女として生まれる。高知女子師範学校時代に喀血。1941年、上京して文筆生活に入る。57年「ストマイつんぼ」で第8回女流文学者賞、60年、「婉という女」発表。70年「於雪―土佐一條家の崩壊―」で第9回女流文学賞を受賞。98年、芸術院会員となる。

虐げられる者への共感貫く
絶望の底を浚って得た女の非常な強さ

 このほど高知県本山町にある大原富枝文学館を訪ねた。毎日出版文化賞・野間文芸賞を受賞した大原さんの代表作「婉という女」の舞台であるとともに、作家自身のふるさとでもある。今年1月、87歳で亡くなった作家が愛してやまなかった山々や吉野川の清らかな風景が初夏の陽光を浴びて美しい。

 大原さんの口癖は「とにかく書きたいものだけを書く」。そして「立身出世する女は書けません。弱者である女がその運命を受け入れて強く生きる姿に引かれます」と語っていた。一貫して凝視し続けたのは、強圧を受けながら決して折れることなく耐え抜き生き抜く女の生だった。


 生前、記者は大原さんに若い頃の話を聞いたことがある。自らの文学を「負の出発」と語るように、9歳の時に母が死去。18歳の頃、結核を患い、10年の療養生活をふるさとで過ごした。その頃、病気への偏見は凄まじかった。「道を歩いていても、擦れ違う人が『うつる』といって、鼻をつまんで避けて行ったものです」。この間、8年ごしの恋にも破れた。「人間の小さい裏切りや小さい意地悪は許せるが、人の生涯を壊滅させるような裏切りは許せない」。激しい言葉が今も耳に残る。

 敗戦前、空襲が酷くなって、誰もが東京から地方へと疎開して行く中で「創作に専念しようと、故郷を捨てて上京した」のは、そんな訳があったから。恋人だった男性は戦死。
 その後時代の運命を見つめながら小説を書きためた。「婉という女」が世に出た時は47歳になっていた。この小説は、土佐藩の宰相野中兼山の死後、反逆者の一族として獄に囚われ、女として生きることなく40年を無為に過ごした兼山の子、婉の半生を描いたもの。

 婉の生涯は、また大原さんの生にも重なる。大原さんは後に「この作品を書くことで、私もいわば40数年の女の生命を生き直したのである」(「私の取材ノート」)と書いている。さらに「作家はいつの時代、いかなる人物に素材を借りても、結局は自分を描くことしかできないものなのである」との言葉も残している。「文学的本質のみごとな強じんさ」(劇作家・木下順二氏)と評される真の小説というのは、このように作者の抜き差しならぬ生命を賦与されて、初めて可能なのかも知れない。

 作家の虐げられている者への熱い共感は、文学作品の中だけにとどまらない。大原さんは、政治犯として「韓国」で捕えられた徐勝、俊植さん兄弟の支援運動もずっと続けてきた。「新宿で2000枚のビラを配ったこともありましたよ。ご兄弟も偉いけど、お母様は本当に偉かったですね」と述懐していた。長い救援運動の中で1人、また1人といつの間にかやめていく人もいたが、最後までやり通した。

 「従軍慰安婦」をテーマにした作品はすでに1950年代の初めに発表した。「朝鮮やアジア各国から、この問題を厳しく問う声が上がっています。それでも日本政府は女性たちをどのように動員したか『知らぬ、存ぜぬ』を決め込んでいる。そんな嘘は通じない。その対応ぶりを見ていると、政治が地に落ちているとしか、言い様がありません」

 軍国主義一色に塗りつぶされていた青春時代。若い女たちは製紙工場や紡績工場で牛馬のごとく酷使され、死んでいった。「その犠牲の上で力をつけた日本は、隣国朝鮮への侵略戦争にのめり込んでいきました。遅いとは思うが愚劣な過去を償ってこそ、国際社会で日本は信用されるようになるでしょう」。政治を語る言葉は的確だった。

 現実政治の中で無力な女たち。無力であるばかりか、多大な犠牲をも強いられる。弱者である女は運命に翻ろうされるが、しぶとく生き長らえていく。大原さんは常に、男たちに作られ、崩されてゆく歴史を直視していた。そこから見つめたのは「絶望の底をさらって得たような非常なまでの女の強さ」だったのである。

 大原富枝文学館には92年の開館以来四万人以上の人々が訪れた。女性ファンが多いという。人に頼らぬ暮らしを見事に貫いた生き方も、女性たちを引きつけてやまないのだろう。 (朴日粉記者)

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