語り継ごう、20世紀の物語
どん底から這いあがった人間らしさへの希求
李相均さん(75)
「日本中の土木工事は誰がやったのか」 李相均・在日本朝鮮人高知県商工会会長は年に1回、四国4県の朝鮮人商工会を代表して、高松国税局の当局者と話し合ってきた。「税金を払うのは日本に住む以上は当然。この席で私が言うのは、朝鮮人1世の生の声を聞きなさい、ということだ。『あなた方は知らないといけない、日朝の足元の歴史を』と言うんだ。四国、いや日本中の土木工事は誰がやったか。防空ごう掘り、堤防工事、川底のしゅんせつ、飛行場建設、ダム、トンネル、鉄道、炭坑、工場の地ならしなど、朝鮮人の血と汗が滴り落ちなかった所は日本のどこにもないと…。日本は自分の行為に目をつぶり、他国を蹂りんした足跡を忘却しようとしている。これでは日本は21世紀にアジアでは生きられないだろうと」。 この説法を続けて20年近くにもなる。それは日本の官僚に朝鮮人の生の声をぶつけ、日朝の過去の清算に少しでも役にたってほしいと願っているからだ。 半世紀以上も前、初めての海峡を李さんが渡ったのは19歳の時。自分の意志ではなかった。物心がついた頃、祖国は日本に蹂りんされ、同胞の慟哭は朝鮮の津々浦々に満ちていた。 生まれ故郷は全羅北道井邑郡。父は小作農だった。貧しさは年々、度を増した。「目の前にある田圃や畑、山でさえ自分のものではなかった。日本人らが来る前は山菜やどんぐり、木の芽を採りにいくのも自由、どれだけ採っても文句を言う者などいなかった。しかし、幼い私の目に映るすべてのものは今や、日本の東洋拓殖株式会社のものだった」。 貧しい暮らしの中から父は息子を寺小屋の書堂に送り、千字文で漢字を覚えさせ、朝鮮語の読み書きを学ばせた。そして普通学校にも通わせた。寡黙な父が息子に言い聞かせたのは、ただ一言「無駄口をきくな」という言葉。すでに日本の監視網が村中に張り巡らされていることを察知してのことだった。 「幼い私は父の危惧を理解できず、日本人も朝鮮人も同じ人間なのだと素直に信じていたのです」。そんな頃、国民学校4年生の李さんは衝撃的な体験をした。 「校長先生に何かを貸して下さい、と日本語で言ったところ、校長は私の日本語が上手くないとせせら笑ったのです」。屈辱感とみじめさに打ち震えた。思えば日本への反感が芽生えた瞬間であったと思う。1937年にはオモニも亡くなり、一家の暮らしはどん底に落ち込んだ。国民学校を卒業した李さんは村役場で給仕をしたり、郵便配達の手伝いをした。 42年の春、村に炭坑の募集が来て、兄が四国の愛媛県へ。それから2年後の44年6月、今度は李さんが村で突然、人狩りにあいトラックに乗せられ、日本に強制連行された。麗水から下関、仙台、青森、函館へ。行先は美唄炭坑だった。「着のみ着のまま、貨車に詰め込まれ、まるで奴隷そのものだった」。父とも会えずじまい。それが今生の別れとなった。 美唄炭坑ではタコ部屋と呼ばれる劣悪な長屋に押し込められ、炭坑の中の大工仕事に就いた。時には日本語ができるということで、通訳のような役目も。「面従腹背、コツコツ仕事をこなすふりをして、じっと逃げ出すチャンスを伺っていた。信用できる日本人の家を中継地にして、四国の兄と連絡を取り合い、荷物を少しずつ運び出していった」。その機会がめぐって来たのは、2ヵ月後の8月31日。美唄から線路伝いに夜中ひたすら歩いて、小樽駅へ出た。しかし、そこで憲兵の姿を見て、今度は海岸線沿いに瀬棚、函館へ。親切な漁民と出会って1泊。翌朝、おばあさんが大きなおにぎりを持たせてくれた。 こうやって無事に四国の兄の家にたどりついた。やがて祖国の解放。香川県の琴平、善通寺で米軍相手の闇商売を始めた。タバコや米、アメ、焼酎、古鉄…。なんでもやった。しかし、稼いでは遊ぶ癖ができて、暮らし向きはいっこうによくならない。そんな時に大きな転機が訪れた。朝鮮総聯結成の後、近畿経済学院の講習会に参加する機会に恵まれた。 「講師の話を聞いて、目からウロコが落ちる思いでした。『天子の赤子』とは何だったのか。私たちはその言葉によって故郷から根こそぎ引き抜かれ、異国に連行され、地獄のような地底に潜らされた。『半島人何じゃ』とさげすまれながら、頭ごなしに怒鳴られ、殴られて…。そのことがよく分かった」 李さんの生活は大きく変わった。高知県の越知町でまず友人と共同でパチンコ店を始めた。19台しかない小さな店だった。瞬く間にはやり出し、独立して40台、さらに70台の店へと繁盛していった。ところが近くに競争相手が出店したとたん、店はつぶれてしまった。「ここで教訓を得た。つまり、 負けたらあかん ということだ。営業努力を忘れて、慢心したらすぐ駄目になると肝に銘じた」。 この時代に結婚もし、さらに商売への意欲が沸いてきた。不眠不休で働く日々だった。高知と宿毛の店を深夜バスで往復する毎日だったが、疲れを感じたことはなかった。「家内がいる所が住居という実感だった。店も段々増えていくと問題も出てきた。労働力をどう確保するかで頭を悩ませた。パートの女性たちは、農繁期、子供の運動会、参観日といっては休む。胃が痛くなりましたね。早朝から深夜1時、2時まで、ずっと家内と働きづめで来ました」。 裸一貫から立ち上げた店は、今では高知全域に10店舗以上、従業員の数も200人以上にもなった。今年の長者番付では高知市で1位、全県で3位になり、今では李さんのことを知らぬ人はいない。しかし、余裕ある暮らしになっても旅行1つせず働いてきた。昨年妻と半世紀ぶりに美唄を訪ねたのが初めてだった。 民族の未来を愛する気持ちは、高知県の朝鮮会館建設の際の多額の寄付や全国に先立って民族学校に通う子供らへの奨学金制度を作ったことからも伺える。李さんはつねに「人間らしく生きる」ことを希求してやまない。今、統一を目指す南北朝鮮の共同宣言が発表された。一世紀に至る受難史を大転換させ、幸福を約束する新世紀へ。辛い歴史を知っているからこそ、喜びはひとしおだ。 その表情には祖国と共に歩んできた強い自負心が宿っていた。(朴日粉記者) |