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地図・地理書


国学と共に発展/傑作「東国興地勝覧」「大東興地図」

 1828年9月17日、日本の歴史上、10指に数えられる大型台風が襲来し、各地に大きな被害をもたらした。唯一の外国との窓口だった長崎のオランダ屋敷もほとんどが倒壊したが、折から帰国予定だったシーボルトの荷物の中から当時、禁制品だった日本地図が発見され、幕府を揺り動かす大事件に発展した。

 かの有名な、シーボルト事件を紹介しようというのではない。地図が当時の国防上、トップシークレットだったという例を示したかったにすぎない。

 朝鮮半島においても、この日本の例に見るまでもなく地図、地理書の作成は中央集権と国防の強化という観点から推し進められてきた。

 ところが15世紀に入り、それまでの中国中心の世界観を基本とする性理学に対抗する形で国学、つまり朝鮮文化が中国文化の一部ではなく朝鮮古来のものであると認識する学問研究が深められていった。

 この影響のなかで国土研究が進み、各地方の自然環境と人物、風俗、人心の特色、産業、文化、山脈、河川、港湾、道路網などが細かくかつ精密に反映された地図、地理書が編さんされていった。

 地理書としては王命によって1481年、50巻にまとめられた「東国輿地勝覧」(トングッヨヂスンラン)が知られている。全国の総図と各道の地図が添えられ、郡県の沿革、風土などが項目別に記述されている。その後、数回の改訂増補を経て1530年、55巻の「新増東国輿地勝覧」として完成した。

 今は存在しない「周官六翼」など、貴重な書籍をふんだんに引用。15〜16世紀の朝鮮研究にとって不可欠の史料で、朝鮮地誌の代表作として、後代の地誌・地方誌の編さんに大きな影響を与えた。

 地図では、1861年に金正浩が木版印刷で刊行した「大東輿地図」(テトンヨチド)が李朝時代の地図のなかで最高傑作として名高く、前近代の歴史・地理研究の必読書といわれている。

 縮尺16万2000分の1で、朝鮮全土を緯線方向に22葉に分割し、各葉は横折りにされてある。27年間の現地踏査を行って作成された。姉妹編として、「青丘図」(2巻)、「大東地誌」(32巻)がある。

 しかし金正浩は、禁止されていた木版印刷を行った罪で死刑に処された。

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