悠久の文化を誇る
高句麗壁画古墳(上)
去る6月15日に採択された南北共同宣言では、南北朝鮮が統一問題を自主的に解決するとともに、民族経済の均衡的な発展と社会、文化などの諸分野においての協力と交流を行っていくことが明記さた。
これは、歴史に関して極言すれば、分断55年という歳月において、民族の歴史認識についての南北間の溝を埋めていく問題を提起したともいえる。 私たちが1つの民族であるということを再確認するうえでのパターンは、南北が共有する経験、すなわち歴史である。ここでは、民族の同質性の確認のため、南北、中国、日本などの古代史研究者が関心をもつ問題のひとつである高句麗壁画古墳を中心に整理してみることにした。 貴族墳墓の一型式 高句麗(コグリョ)は紀元前277年に、高朱蒙(コ・ジュモン)がひらいた国家である。 初期の首都は、鴨緑江対岸の卒本(そつほん。現在の中国・遼寧省桓仁=りょうねいしょうかんじん)に置かれた。紀元3年には国内城(現在の吉林省集安=きつりんしょうしゅうあん)に遷都し、427年には平壌(ピョンヤン)に都を移している。広開土王(クァンゲトワン、在位391〜412年)・長寿王(チャンスワン、在位413〜491年)の時代に現在の中国の東北地方に進出し、また朝鮮半島の百済(ペクチェ)・新羅(シルラ)・伽耶(カヤ)を攻めて、広大な領土をひらき、東アジアの強大国家となるのである。 その後、中国の隋(ずい)・唐(とう)帝国の侵入をことごとく撃破したが、668年、唐―新羅連合軍によって滅亡することになる。 高句麗壁画古墳とは、高句麗の貴族たちが残した墳墓(ふんぼ)の一型式である。石室封土墳(せきしつふうどふん)のうち、壁画に描かれたものをいう。 積石塚と石室封土墳 高句麗にはどのような墳墓型式があるのか。 古朝鮮(コヂョソン)・扶餘(プヨ)・辰国(チングッ)などの古代朝鮮では支石墓・石棺墓(しせきぼ・せきかんぼ)にみられるように石材を用いて墳墓を築いていた。 高句麗人も、墳墓を川石と、よく整えた切石などで構築した。ただ、上記の古代朝鮮諸国とは異なった墳墓型式を利用している。高句麗墳墓には大きく分類して二通りの型式がある。 まずは、積石塚(つみいしづか)である。これは石を用いて一定の規模に積み上げた墳墓をいう。積石塚には、基壇(きだん)があるものとないものとがある。 次に石室封土墳がある。これは石を用いて石室をつくり、その上に土を盛った墳墓である。現在、確認されている高句麗の古墳壁画は積石塚にはなく、石室封土墳からのみ発見されている。 では、墳墓はいつ頃のものなのか。積石塚は紀元前4世紀頃から五世紀の初め頃まで、石室封土墳は2世紀頃から高句麗滅亡までの期間に築造された。 現在、98基を確認 高句麗の古墳壁画は、石室封土墳の石室の壁面および天井と羨道(せんどう)などに描かれている。石室内に石灰を施した後に壁画を描く場合と、壁面に直接描くものとがある。 では、なぜ古墳に壁画を描いたのか。これについてはまだ具体的な研究が少ないが、高句麗人の来世観からとらえることが多い。高句麗人は、人は死ぬとあの世に行くと信じていた。だから初期に、死後の世界で幸福に暮らせるようにと石室に人物風俗図を描いたのであろう。 また後期には、石室の魂を保護するために東西南北を護る神獣―四神(ししん)を主題にしたのであろう。 壁画古墳は、高句麗貴族の墓に描かれているので、石室封土墳が築かれた頃の高句麗の首都―中心地であった集安と平壌一帯、副首都であった黄海南道安岳(アナッ)地方から多く発見されている。また、初期に首都が置かれた桓仁からも1基が確認されている。現在、発見された高句麗壁画古墳の数は98基である。(河創国、朝鮮大学校・歴史地理学部教員) ◇ ◇ 【古墳】地上に墳丘を築き、その中に埋葬施設を設けた墳墓の総称。 |