在日の歴史、なんでもQ&A
解放直後の帰国状況は
自発的に130−140万/大小漁船借りるか購入
炭鉱労働者、早期実現求めスト
Q 解放直後、同胞はどのように帰国していったのですか。
A 祖国の解放を迎えた在日同胞は、感激と喜びのなか、日本での耐え難い差別と貧困生活から解放されたい一心で、祖国への帰国を急ぎました。 8・15解放直後、数十万人に上る同胞が日本各地から下関、仙崎、博多港に殺到しました。しかし港についた同胞たちは、乗船の見通しもなく各港に釘づけになり、収容する宿泊所も限られるなか、野宿しながら帰国船を待つというありさまでした。トイレもない野外での不衛生な生活で、赤痢やチフスも発生しました。 このような状況で同胞たちは大小あらゆる漁船を借りたり購入して、生命の危険を覚悟で帰国していきました。中には実際台風にあって遭難したり、米軍の未処理機雷に触れて沈没(浮島丸事件)したりして、祖国を目の前に海の藻屑となった同胞も多くいました。大企業や軍部のなかには、日本降伏後の強制連行・強制労働問題追及と戦犯を恐れ、朝鮮人強制連行者関係の資料を隠ぺいし、連行者を素早く朝鮮へ帰したという例もあったようです。 日本政府は9月中旬になって朝鮮人強制連行労働者の帰還事業を開始します。輸送順位は土建労務者を先にし、石炭労務者を最後と見ていました。というのは敗戦で軍関係の地下壕建設など土木関係の労働需要がなくなった反面、当時ひっ迫した石炭需給の必要性から強制連行者を働かせておかなければならないためでした。 このため、各地の炭鉱で帰国の早期実現を望む同胞労働者の抵抗が頻繁に起きました。北海道では約8000人の同胞労働者がストライキに突入し、常磐炭坑でも約4000人の労働者が就労拒否闘争を展開しています。 日本政府による有効な帰国政策が欠如したまま自発的に行われた同胞の帰国者数は、46年3月までに大雑把に見積もって130万から140万人に上ります。(金大遠、研究家) |