朝鮮学校を初訪問――文部省 寺脇研政策課長に聞く

生きる力、誇り持つ子供

競争原理の有無に日本学校との違い


 「朝まで生テレビ」や「ここが変だよ日本人」などのテレビをはじめ、新聞、雑誌や自身の著書で「教育改革」を熱く説く、文部省の寺脇研政策課長を栃木朝鮮初中級学校(小山市)に招き、話を聞いた。

  聞き手は同校の文八智校長。文部省の現役官僚が朝鮮学校を訪れるのは初めてのことだ。

入試で釣る不自然さ

 文八智(以下、文) 朝鮮学校に初めて訪れた印象は。

 寺脇研(以下、寺) 子供たちがとてもいい。本当に伸び伸びしているし、お互いを認め合っている感じがした。それは、同胞だから仲良くしなくてはいけないと、頭で分かっているからではないと思う。たぶん彼らは、日本や他の外国の子供と一緒に集団を作る機会があっても、きっといつもと同じように互いを認め合うことができるだろう。

 日本の学校とどう違うのかと考えてみると、とくに今日は小さな学校だったということもあるが、日本の学校でこうした規模の学校の場合、よく「子供たちが馴れ合いになってしまって、正しい競争心が育たない」という批判が出る。でもなぜ競争しなきゃいけないのか。やはり日本の学校には根本的な原理として競争主義があるのかもしれない。

  もしかすると日本学校にあって朝鮮学校にないものの一つが、そうした競争主義なのかもしれない。そしてその象徴が受験戦争だろう。先日、日本の先生たちが、受験をなくして一番困るのは自分たち自身かもしれないと話していた。受験という目標なしに、子供たちを勉強する気にさせられる力が、果たして自分たちにあるのかと。

  子供の数が減ってきているなか、従来のように高校や大学の受験だけを動機づけにして勉強に駆り立てることは難しくなってきているが、入試で釣らないと勉強しないという方が、本来は不自然だと気づくべきだ。

 昔は仕方なかったが、今では希望者より数の多い高校、大学を用意できるようになったのだから、入試をモチベーションにしない教育に切り換えなくてはならない。それで、文部省としては、選択可能で多様なゆとりある教育を目指して教育改革をやっている最中だ。

 そう言えば昨秋、東京の朝鮮学校生徒の総合公演を見せてもらった際、「子供たちの表情から『誇り』が感じられたのが印象的だった」とコメントしたが、人はプライドというか、誇りがなくては生きていけない。その誇りというのは、ほかのやつがだめで自分がえらいんだという競争主義に則したものではない。

 私たちはゆとりの教育で「生きる力」を養おうとしているが、本当の生きる力というのは、朝鮮学校児童に私が感じたプライドのようなことだ。ところが日本の教育はこれまで学力を中心とする競争主義でやってきたので、学力のない子供はプライドの持ちようがなかった。私たちの教育改革は、そんな子も含め、みんなにプライドを持ってもらうためのものでもある。

地域とのつながりを

  在日朝鮮人としての物の見方や人生観…、朝鮮学校では、そうしたプライドを育むことを教育の中心に据えている。

 それと関連すると思うが、朝鮮学校は地域の在日朝鮮人コミュニティの学校だ。地域性と手作りが特徴の1つでもある。そうした環境の中で子供たちは、この学校が、誰が、何のために、誰のために、作ったものかを理解している。つまり、いったい自分がなぜここにいるのかが可視化されていて、学校に来ることの明確な動機づけがある。

  素晴らしいことだ。今、日本の学校も地域とのつながりを取り戻していこうと、新しいコミュニティ作りを目指している。学校現場で起きている様々な問題の要因の1つが、学校から地域性が失われたことだと考えているからだ。

  日本の学校が地域の学校になっていけば、私たちとも同じ地域の学校として、今以上に交流が盛んになるだろう。

  当然そうなっていくべきだろう。日本の中に、同じ地域に、すぐそばにいるのだから、お互いのいいところを学び合うのはとても大切だ。

  朝鮮学校は日本政府・文部省に対し、差別的な処遇を改善して1条校に準じた扱いをするよう一貫して求めて来た。98年2月には日本弁護士連合会も扱いが差別的だとして是正するよう勧告しており、国連の人権関係の各委員会などの指摘も相次いでいる。文部省には、朝鮮学校の処遇を改善する意思があるのか。

 寺 そうした要望についてはもちろん知っている。ただ、私たちとしては、朝鮮学校に限らず、様々な外国人学校やフリースクールなども含めた一条校以外の「学校」をどうとらえていくか、積極的に考えなくてはならない時期に来ているとの認識を持っている。

  なぜなら、日本人の子供でも、1条校に行かない、行けない子供たちが増えたからだ。首相の私的諮問機関、教育改革国民会議などにおける議論でも、そうした学校を認知していく方向で進んでいる。

  その認知していく方向性と、私たちが主張する一条校に準ずる扱いとの関係は。

  近いと考えていいだろう。助成については、今まではまったく公費を出さないということだったが、支出する可能性について議論も始まった。

 資格の問題についても、例えば昨年、大学入学資格検定(大検)の受検資格を緩和したが、さらにその回数を増やす一方で(現在は年1回)問題の内容にも配慮するなど受検者の負担を減らす方向にある。将来的にはなくすことまで含めて検討する必要があろう。

 また今後、18歳人口の減少により大学受験競争が緩和されるなかでセンター試験のあり方も見直されるので、大検と一緒にして高校卒業資格認定試験のような形にし、例えば朝鮮学校やフリースクールの子もみんなが受けるようにするというアイデアも出ている。

  私たちが朝鮮学校を認めろ、1条校に準ずる扱いをしろ、というのは、民族教育の権利を認めろということだ。

 文部省が多様化、国際化を志向するという「教育改革」を進める中で、それぞれの民族教育なり、本国と同じ教育なりを行う外国人学校をきちんと学校として認知するという明確な政策があるべきだろう。まずそれを行ったうえで、全般的な1条校以外の学校の取り扱い問題として一緒に考えるべきなのでは。

 寺 そうした要望があるのは承知している。それを真しに受け止めることは日本社会にとっても必要なことだ。ただ、その議論を深めるには時間がかかる。

 こうなると文部省だけの問題ではないが、例えば外国人労働者もどんどん受け入れる、あらゆる障壁をなくしていく、これが時代の流れであることは事実なのだが、そうしたことがすぐにはできにくい状況もあるということを理解して欲しい。

  私たち朝鮮学校側としては、1条校以外のあらゆる学校の処遇を見直そうという流れ自体は歓迎すべきことだと言えるかもしれない 

  だが、分けて考えて欲しい部分は歴然としてある。日本の植民地支配の結果、存在することになった在日朝鮮人である私たちの過去の歴史的経緯などは、当然主張していかなくてはならないと考えている。

   それは理解できるが、まずできることからやっていこうということだ。
 はっきり言えば、まだ日本社会では朝鮮に対する偏見も強い。そうしたなかで朝鮮学校の処遇を改善していくためには、日本の子供の問題を含めて一括りにして提案していかないとうまく行かないという現実がある。

取材を終えて

 文部省の現役官僚が初めて朝鮮学校を訪れ、現場の校長と意見交換を行った意義は小さくない。

  寺脇氏は、初級部4年〜中級部3年の5、6時間目の授業を参観しただけでなく、教員室に顔を出して教員らに質問をしたり、休み時間には子供たちと一緒に床に座り込んで話し合うなど、積極的に交流していた。全科目の教科書にも目を通し、内容について説明を受けた。

 対談では、文部省が現在進める「教育改革」の方向性を、むしろ朝鮮学校が先取りしている部分もあることが伺えて興味深かった。また記事では省いたが、寺脇氏は朝鮮学校の教育内容のレベルが日本の1条校と同等だということを十分認識していて、「日本の学校と比べて違和感はまったくない」と語っていた。

 民族教育の権利、朝鮮学校の処遇については、朝鮮学校側の一貫した主張と文部省の見解にいまだに大きな壁があることも感じさせた。その壁が存在する要因を、寺脇氏は保守的な社会風潮、世論に求めていたが、仮にそうだとしても、それが国民の利益になることならば、世論を説得しながら、政府が率先して進めることも可能なはずではないだろうか。

 また日本政府・文部省がこれまで朝鮮学校を敵視、差別し続けてきた責任からは逃れられないだろう。日本の植民地支配の結果、日本に存在することになった私たちが、自らのアイデンティティを守り、育むための教育を行う権利は当然あり、日本政府にはそれを認める義務がある。

 しかし、対談で語られていたように、日本社会で1条校に行かない、行けない子供が増加し、それに伴い多様な「学校」が増加している現実を日本政府が無視できなくなった現状は、朝鮮学校にとって決して不利なものではない。多様な学校を認める方向になってきた現在の社会状況を私たちの運動に有利に生かしていくための幅広い視野が、今後、より必要となるだろう。そのためにも、今回のような意見交換の場を持つことの意義は大きいのではないだろうか。 (韓東賢記者)

 

会談の関連記事