悠久の文化を誇る
高句麗壁画古墳(下)
玄室北壁壁画
4世紀後半―5世紀前半 風俗・四神図、装飾文が共存 壁画は、3世紀頃から高句麗が滅亡する七世紀中頃まで描き続かれている。そのモチーフはさまざまであるが、大きく分けて墓主の生活を中心とする人物風俗図、蓮華(れんげ)や環文(かんもん)などの装飾文(そうしょくもん)、青龍(せいりゅう)・朱雀(すざく)・玄武(げんぶ)・白虎(びゃっこ)などからなる四神図の3種に分けることが出来る。これらはある一定の期間に共存していた。
3世紀から4世紀前半までは人物風俗図が描かれ、4世紀後半から5世紀前半までは人物風俗図、人物風俗図および四神図、装飾文が共存する。5世紀後半になると人物風俗図と人物風俗図および四神図に2本化され、6世紀からは壁面に四神図だけが描かれるようになる。 人物風俗図から四神図にいたる壁画のモチーフの流れは、高句麗人の世界観の変化をあらわす内在的発展とすることができる。 高句麗をのぞく三国時代のほかの国からも壁画古墳が発見されている。まず、百済では、現在まで2基の古墳が確認されている。公州宋山里(こうしゅうそうざんり)六号墳・扶餘陵山里(ふよりょうざんり)壁画墳である。新羅では、慶尚北道順興の於宿知述干墓(おしゅくじゅつかんぼ)と、順興里(じゅんこうり)壁画墳の2基の古墳が、また伽耶地方では高霊の古衙洞(こがどう)壁画墳1基が確認された。これらを高句麗壁画古墳の影響と考えることも出来る。 また日本では、4世紀から6世紀にかけての福岡や熊本地方で装飾古墳とよばれる壁画古墳が発見されている。装飾古墳を高句麗を中心とする朝鮮半島の壁画古墳の影響ととらえることも出来る。また、7世紀末〜8世紀初の高松塚(たかまつづか)古墳とキトラ古墳も、その女子像・四神図・星宿図などの類似点から、高句麗壁画古墳との関連が指摘されている。 人類共通の文化遺産 高句麗壁画古墳に描かれた優れた絵画技法と、千数百年の時を超えてなお現存する色彩、星宿図(せいしゅくず)にみる天文知識などは古代朝鮮民族の優れた世界的文化水準を誇らしげに語るわれわれの貴重な文化遺産といえる。また壁画の内容は、不足がちな高句麗関係史書を補う当代の1級資料といえよう。 平壌一帯の高句麗壁画古墳をユネスコ世界遺産の文化遺産として登録する動きが、平山郁男画伯を中心とする世界遺産登録に尽力する人たちによって行われている。 今回の登録対象はまだ未定であるが、江西大墓(こうせいだいぼ)と中墓、徳興里(とくこうり)壁画古墳、安岳3号墳、東明王陵(とうめいおうりょう)などが候補とされている。この古墳を世界遺産に登録することのもつ意義は、まず高句麗壁画古墳を人類共通の文化遺産として認定することである。 次に、永遠にこれを保存保護するうえでも意義あることになろう。また、戦争の危機にさらされている朝鮮半島の平和と統一にも寄与することになる。(河創国、朝鮮大学校・歴史地理学部教員) ◇ ◇ 【江西三墓(大墓、中墓、小墓)】南浦市西区域三墓里にある七世紀前半の高句麗石室封土墳。大中小の3基の墳墓が並ぶ。大中の墳墓からは四神図が発見されている。 【安岳3号墳】=黄海南道安岳郡五局里(ごきょくり)にある高句麗壁画古墳。高句麗最大の石室をもつ古墳で壁面には人物風俗図が描かれる。故国原王(ここくげんおう。331〜371年)の墓とされる。 【東明王陵】=平壌市力浦区域龍山里にある5世紀前半の壁画古墳。壁面に蓮華装飾文がなされている。427年、国内城からの遷都の際に始祖・東明王陵を移築したものとされる。 【キトラ古墳】=奈良県高市郡明日香村にある7世紀末〜8世紀初の円墳。横穴式石槨の天井に星宿図が、壁面に青龍・白虎・玄武が描かれている。 【高松塚古墳】=奈良県高市郡明日香村にある7世紀末〜8世紀初の円墳。1972年の発掘で壁面から青龍・白虎・玄武と男・女群像が、天井から星宿図が確認された。 |