近代朝鮮の開拓者/(11)
洪明憙(ホン・ミョンフィ)
洪命憙(号は碧初、1888〜1968年)名門豊山洪氏の家に生まれる。幼児より漢学を学び、生長につれて中国大河小説、自然主義文学、とくに、ロシア文学の影響を受ける。28年より大作「林巨正」を執筆。48年、子息と共に共和国へ。 |
歴史大作「林巨正」を執筆/連席会談後、そのまま北に
洪命憙は、朝鮮の代表的な歴史大河小説「林巨正」の作者である。日帝支配下、独立を目指す民族統一戦線組織である「新幹会」の結成(1927年)に大きな役割を果たした彼は、解放後、南北分断の危機に際して48年、金日成主席の呼び掛けに応じて、南から金九らと共に南北諸政党社会団体連席会議に参加し、会議の終了後も北に残り、内閣副首相などの役職に付いた。 洪命憙は、ソウルの中橋義塾を経て、日本に留学中、夏休みに故郷に帰っていたが、その時、父の自決を目撃して生涯忘れることのない衝撃を受けた。 伝統に従って年の喪に服し、それが明けると満州、北京などを放浪し、帰国後、3・1独立運動に際しては槐山でのデモの先頭に立ち、逮捕されて1年半、西大門刑務所で服役した。 出獄後は、思想団体「火曜会」に属し、マルクス主義を熱心に学んだ。しかし、彼は伝統的で深い朝鮮学によるものであろうか、左翼であっても「共産主義者」となることはなかった。その生涯にわたって真面目な「主義者」と多くの仕事を共にしたけれども。 彼の漢学と文学の勉強は五歳の時から始まった。「千字文」「論語」の学習から長ずるに従って自ら「三国志」「水滸伝」など中国の小説を原文で読んでいき、日本留学以後はフランスのバルザックなど自然主義的な小説、とくにロシア文学から深い影響を受けた。 48年、子息の起文を連れて連席会議に参加した彼は、そのまま北に残り、政府樹立と共に副首相となり祖国平和統一委員会委員長などを歴任し、68年に亡くなった。子息の起文は父の意志を継いで金日成総合大学教授、社会科学院で「李朝実録」の国語訳という大業を成し遂げた。(金哲央、朝鮮大学校講師) |