近代朝鮮の開拓者/文化人(12)
李萬珪(リ・マンギュ)
李萬珪(1888〜1978年)江原道原州の小農の長男として出生。ソウルの医学講習所を出て外科医となるが、民族魂の培養を期して中等教育に専心。朝鮮語学会事件で下獄。解放後の48年、北に向かい教育行政家として活躍。 |
民族魂に燃え教育行政家に/北に渡り教育発展に貢献 1888年、江原道原州の小農の生まれ。やっと故郷で小学校と書堂での漢学教育を受けたが、向学心を押さえがたく、ソウルに向かった彼であった。ちょうどその頃、学費と生活費を免除して初の新入生を募集する日本の医学講習所の入試の話を聞いた彼は、何はともあれ、これに応募することにしたのであった。5年の過程を経て卒業したのは、亡国の1年後である1911年であった。 開城で外科医をしながら、松都高普の校長であった民族主義者の尹致昊と出会った。「身体の傷よりも、民族魂の健全な生長をはかるのが先決」ということで意見一致を見た李萬珪は、松都高普で「数学」を教える教師の道を歩み始めた。ただし教師になった以上、彼には大きな抱負があった。それは校長との合意のもとに、すでに禁止されていた国語と朝鮮史を教え青年の民族魂を育てることであった。 ◇ ◇ 1936年、彼が校長となった培花高女の卒業アルバムの第1ペー字に、彼の「卒業生たちへ」という短い詩がある。 「汝の根の深ければ、その風に抜かれまじ。汝の香りの清かれば、濁り香りの浸すべきや。古里の初春を、汝つねに心に期せよ」 ――日帝の風(弾圧)と香(文化)に侵されることなく、民族の文化を守り、光復を目指そう、との意味であろう。 38年、朝鮮語学会事件により逮捕され、3年の獄中生活を経て、準備してきた「朝鮮教育史」が解放直後の46年に出版される。 彼は、解放後に左右合作運動を進めた夢陽・呂運亨と親しくなり、とくに彼の発表した教育・文化分野の政策に大きな影響を受けた。 48年には北に移り、教育行政家として普通教育局長を歴任。最高人民会議代議員、「民主朝鮮」社長を経て引退。79年に90歳の天寿を全うした。ただし、南に残した2人の娘とは会うこともなく。(金哲央、朝鮮大学校講師) |