南北離散家族 ピョンヤンでの再会
「これは夢?
現実?」 50年ぶりの夫と父/皮さん親子 【平壌発=本社金志永、姜鐘錫記者】 目を閉じて、そして静かに目を開ける。 「アボジ!」 親子が熱い抱擁を交わした。「アボジ、オモニ(母)がここにいます」。息子は、声が詰まり、それ以上言葉を続けられなかった。4人家族が涙のなかで再会した。 「あの時、アボジに付いて来るようにと言ったでしょ。アボジがおまえたちを守ってあげる、そう言ったでしょ…」 戦争が家族を引き裂いた。当時、平安南道大同郡に住んでいた金チャンファンさん(85、現在慶尚北道大邱市在住)と妻の皮ヒョンスクさん(81)は、娘の金ヨンエさん(62)、息子の金ヨングンさん(58)の手を取って故郷を離れ南へと向かった。 米軍が原爆を投下し、北の地を廃墟にするという噂が流れていたからだ。 金さん一家は、沙里院を過ぎた所で米軍機の爆撃をうけた。 当時、ヨンエさんは12歳だった。恐怖心から全身が震え、そのまま目をつむって地面にふせた。 米軍機の飛び去った後、目を開けて周辺を見渡すと、たくさんの死体が目に入った。しかし、アボジの姿は無く、そのまま探し出すことはできなかった。 皮さん親子は、北にとどまり家族3人力を合わせ、生きていく決心をした。 目をつむって、そして目を開ける。2回のまばたきの間、実に50年の歳月が流れた。 「アボジは亡くなったのだ。もし生きていたなら…オモニと私たちをおいていくなんてできない。父親じゃない…」。1人で子どもたちを育ててきたオモニの苦労をよく知っている娘は、再会のその瞬間まで悪意を抱いていた。 だが、あふれ出る涙とともに心に秘めたすべてが解かれ、会うと、血肉の情が通った。娘は目の前のアボジの姿を再び見た。 「アボジにそっくり」 「おまえがチョンソンか」「姉さん、私の名前を覚えていたんですか」「弟の名前を忘れるものか」――ソウル市に住む姉の林ドクソンさん(76)と、江原道に住む弟の林チョンソンさん(64)姉弟の54年ぶりの再会は、こうして始まった。 林ドクソンさんは、7人姉弟の一番上。両親とともに、黄海北道で暮らしていたが1943年、18歳の時に嫁ぎ、ソウルに所帯を構えた。 3男のチョンソンは、「姉が幼い子を背負い、あやしていた姿は覚えている」が、姉とは年が離れていたため、結婚式の記憶はない。それに両親が早く他界したので、姉がいつ結婚し、故郷をいつ離れたかを正確に知ることもなかった。 姉のことをあまり知らないチョンソンさんだが、再会を通じて、過去の記憶を一つ一つたどっていった。 そして、姉のドクソンさんは、故郷を離れて以来、初めて両親のことを聞いた。父は、朝鮮戦争勃発直後の50年夏、米軍の爆撃を避けるため防空壕に避難しようとしたが、防空壕にたどりつく前に犠牲になった。オモニは停戦(53年7月)直後に他界した。 「両親を失った。当時、これからどう生きていこう かと思った。それでも、分断の壁を乗り越え、姉と再会することができ、嬉しい」と言い、弟のチョンソンさんは再び姉と抱き合った。 54年ぶりの再会で流した涙を通じて、辛い過去を洗い流した林さん姉弟。 「年をとったチョンソンの顔を見ると、亡くなったアボジにそっくりで、アボジを思い出す」、と言う姉のドクソンさんの言葉に微笑む姉弟だった。 戦後生まれた妹と初対面 「私にもう一人妹がいる――。朝鮮新報の記事を手にした時、手が震えた。再会前夜の昨日は、興奮して眠れなかった」 朝鮮戦争のさなか、親兄弟と別れ別れになってしまった金ジュンソプさん(62、ソウル市在住)は、戦争後生まれた末っ子の金ヨンスクさん(41、平壌市在住)の存在を、本紙の報道を通して知ったという。 本紙14日付1面では、離散家族の交換訪問を前に、北でジュンソプさんを待つ3人の弟妹を紹介。 ソウルを発つ前日、ジュンソプさんはインターネットで流れた同記事を持って平壌を訪問した。 金ヨンスクさんは、平壌で再会した兄と一緒にその記事を見ながら、時が経つのも忘れて語り合った。 「初めて会ったような気がしません。お兄さんとずっと一緒に暮らせたらどんなに良いか。1日も早い祖国の統一を願っている」 |