南北離散家族交換訪問
ソウル
弟のヨンチュンさん、妹のヨンニョさんと再会を果たした元山市に住むキム・ヨンファさん
車イスでかけつけた母親の手を握るリ・ジョンピルさん
義母のチェ・ヨンジャさん、妹のチョン・キョンスクさん、ミョンスクさんと対面する江原時報記者のチョン・チュンモさん
喜びの祝杯をあげるパン・ファンギさん( 興市在住)と姉のヒョングさん、妹のクムジャ、ムンジャさん
「初日は涙が出るばかりで、何がなんだか分からなかった。2日目になってやっと落ち着いてきた。でも3日目になると、今度はいつ会えるかという気持ちでやるせなくなる」――。15日から3泊4日の間、離ればなれになった家族との再会を果たした南北の交換訪問団が18日、統一を、再び家族と一緒に暮らすことを約束して、それぞれ平壌とソウルを後にした。「次に会うときは、京義線(ソウル−新義州)に乗ってくる」という話も聞かれた。6月の歴史的な南北首脳会談、共同宣言によって実現した離散家族の再会。50年ぶりの再会も束の間、また離ればなれになる辛さをこらえながら肉親たちは、今回の再会を一過性に終わらせず、分裂の苦痛に終止符を打ち、統一を実現するために余生を捧げることを誓い合っていた。(平壌、ソウル発=本社取材団=文光佑、金三永、金志永、姜鐘錫記者) 朝鮮画で知られる北の有名な画家、チョン・チャンモさん(69)は、妹のチョンヒさん(61)、ナミさん(53)と再会を果たした。 全羅北道全州出身のチョンさんが家族の元を離れたのは1950年7月。彼が義勇軍に参加した時からだ。そんな兄の消息を妹たちが知ったのは13年前のことである。 近年、ソウルでも北の作品展が開かれるようになった。そのおかげで、妹たちは兄の作品とは先に対面していた。妹たちは展覧会が開かれる度に会場に足を運び、兄の作品を購入した。作品がまるで兄の分身のように思えたし、「売れなかったらオッパ(兄)が困る」とも思ったからだ。現在、妹たちの手元には兄の作品6点がある。 南で「越北作家」と称されているチョン・チャンモさんだが、彼自身はそれを否定する。 「南にいたころは筆を握ったこともなかった。絵を始めたのは北に行ってからだ」 筆を握る方法から学び始め、人民芸術家の称号を授与される美術家にまでなった。 「私は越北作家ではなく、平壌画家だ」 妹のジョンヒさんは「本当にありがたい。オッパを有名な画家に育ててくれた北の人々に感謝の気持ちを伝えてほしい」と語った。 「1日も早く統一したらいい。隣の家に行くように行ったり来たりして情を分かち合えるように。釜山にある娘の家にも行ってみたいし」 朝鮮の有名な言語学者、リュ・リョルさん(82)は、娘のリュ・インジャさん(59)と対面した。 リュ・リョルさんが家族をソウルに置いて義勇軍に参加したのは1950年8月のことだ。しかし彼は翌年、北の地域で家族と劇的な再会を果たすことになる。 彼の母と妻、息子が彼を探して北に来たのだが、妻は娘を1人ソウルに置いてきた。戦争の混乱の中で、リュさんが家に来ることもあると思ったからだ。 当時、娘のインジャさんはわずか10歳。家族の再会のために取った行動が、50年もの別れにつながるとは、誰も考えなかっただろう。 戦争終結後、北京大学派遣教授として言語学の研究に一生を捧げたリュウさんだが、歳月が流れるにつれ娘への思いは強くなっていった。 そして50年ぶりの再会。有名な老学者の目から涙が乾くことはなかった。目に涙をいっぱいにためたまま娘を抱き寄せ、何度も何度も顔をなでる。 「お前のハルモニ(祖母)は亡くなる直前までお前の話ばかりしていた。オモニ(母)も私も…」 それ以上言葉が続かない。娘は、今日の再会の日まで親戚にもらった父親の写真を「穴が開くほど繰り返し」見つめ、その顔を脳裏に焼きつけていた。 「写真のままです。しわが増えて白髪になった以外は…。生きているとは聞いていたが、言語学の博士になったなんて誇らしい。夢のようだ」 父も、会場で娘をすぐに探し当てた。血は争えない。感激的に対面した父と娘の顔はそっくりだった。 死んだと思ってたのに… 平壌音楽舞踊大学研究士のキム・オクペさんと母親のチョン・ギルスンさん(87)の再会も劇的だった。 13歳の頃、年齢を偽って義勇軍に参加したキムさんと南に残った母をはじめ家族はこの50年間、互いに消息を知らずに過ごしてきた。キムさんは戦争中、母親が亡くなったという話を伝え聞いていたし、南の家族はキムさんが死んだものだと思って死亡申告まで行っていた。 しかし妹のヨンベさん(59)らは先月の16日、KBSのニュース速報で、北のキム・オクペという女性が家族を探しているということを知る。 「死んだと思っていたのに。家族全員、あまりにも驚いて卒倒するかと思いました」 以来、今日まで南の家族は落ち着かない日々を過ごした。母親が生きていると知ったオクペさんもまた、眠れない日々が続いた。 15日、金浦空港で飛行機のタラップを元気に下りてくるオクペさんを、南の家族はすぐに探し当てたという。 「オモニ、生きてらっしゃったんですね」 母を抱き寄せる娘。感激のあまり言葉に詰まり、「うん、うん…」としか答えられない母。 「うれしいなんてもんじゃない。夢の中にいるようだ。博士になってきたんだから、立派な孝行娘でしょう。ありがたいし、誇らしい」 オクペさんが平壌で授与された共和国教授、博士の証書を見ながら、妹のヨンベさんは言う。 オクペさんはまた、日本の植民地時代、中央日報に勤務し、日章旗を消して新聞を発行したことで知られる父、キム・ヒョンドさんの遺言状を持ってきた。 この遺言状は、オクペさんが義勇軍に旅立った13歳の時、母が持たせてくれたもの。民族の役に立つ人間になれという父の遺言状を、オクペさんは額に入れてずっと大切にしていた。 「お姉さんはアボジの遺言通り、立派な人になった」(妹のヨンベさん) |