文学散策

「トリョン峠の鳥」/玄基栄

「誰が歴史の犠牲者なのか」


 「海を塞いでおいて軍警合同討伐隊は島をぐるりと取り巻き、海岸からしらみつぶしにして上がっていった。暴徒たちが海岸に襲撃してくるとき隠れそうな海辺の一周道路の近くの畑の石垣という石垣はすっかり崩し、松の茂み、笹やぶも燃やし、暴徒たちが竹槍を作るかもしれないと竹やぶも燃やし、ついでに村の人の憩いの場所だった大木、守り神のエノキも切り倒し売っぱらい、行き当たる山手の部落ごとにすっかり焼き払い、その火で体を暖め、漢拏山(ハルラサン)の中央へと包囲網を次第に縮めていった。いまやどう飛び跳ねても、飛び込むのは同じ草むらといったバッタみたいなものである。これは山狩りでしかない」(「韓国短編小説選」岩波書店)

済州島4・3の悲劇を鮮烈に描く

 昨年12月に成立し、今年4月から施行された「済州4・3事件真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法(4・3特別法)」。

 半世紀以上も前に起った事件の「究明が遅れるのを防ぐため」(第3条)の法が、文字通り世紀の終りにようやく制定された。南の地で、1948年の「済州4・3」がいかに徹底的にタブー視されてきたか、このことだけからもうかがい知ることができよう。この「歴史的な事実に対するタブー視の度合い」なるものは往々にして、文学作品として形象化される時間(期間)的・質的成熟度と比例しうるのではないかと考える。

 例えば、1980年の光州がリアルタイムで詩に謳(うた)われ、その数年後には小説化されたことを思う時、光州蜂起のほんの数年前に小説化され始めた済州島の「4・3」、それを包む深い闇を実感せずにはいられないのである。

 70年代後半、それでも先駆として済州島の歴史の小説化に取り組み、少年期の原体験としての「4・3」を描き続けている作家が玄基栄である。1941年、済州邑(現在は市)に生まれた作者は、ソウルで大学を卒業し教師となるが、75年に文壇デビューする。「スニおばさん」は「4・3」をテーマにした代表作だ。現在は民族文学作家会議常任理事を務める。

 短編「トリョン峠の鳥」(79年作)は48年の冬、ゲリラ対策の城壁作りに狩り出された1人の中年女性が、束の間の休息時間に「見たこと」と「考えたこと」、そして「思いだしたこと」のみを淡々と記すことで、その中の済州島を覆い尽くした劫火と血の匂いを鮮烈に描いている。

 タブー視されてきた歴史的事件を作品化する場合、作者がどのような立場に立つかということが非常に重要なファクターとなる。

 さらに、「4・3」は、その政治的立場によって、「武装蜂起」とも「共産暴動」とも呼ばれてきた(だからこそ真相究明が問われている)だけに、誰の立場と視点で物語るかという問題が、単なる小説の技法や形式を越えた次元で提起されずにはいられないのだ。

 作者は、「左右どちらの側に立つか」ではなく、「誰が歴史の犠牲者なのか」を、母であり妻である1女性=生活者=民衆の眼と心を通して問いかけ、それを救うことの出来ないイデオロギーは何のためにあるのかを静かに訴えている。

 「暴徒」撲滅のために村を焼かれ、城壁を積み上げる苦役にあえぎながらも、息子との3ヵ月ぶりの対面(予定)に胸を踊らせ、しかし赤ん坊を死なせ息子に持たせる食料1つない飢餓に胸を痛め、行方不明の夫の安否を気遣う――これが主人公の思いの全てであり、全ての生である。「とうちゃんが死んだなんて知らせがどうか来ませんように。そうしてくれれば、どこかに生きているだろうという未練が残るし、この一筋の未練にしがみついて生きてゆけば、次第次第にあきらめがついてきて、1人でに断念できるだろう」。

 そして、死体の始末に狩り出されるラストシーン。「鳥の嘴(くちばし)につつかれた死骸の顔が気味悪くとうてい正視できず、顔をそむけていたのに(中略)こんなところでうちのとうちゃんを捜そうなんて」。このギリギリの生を根こそぎ揺るがす「4・3」の悲劇と、その象徴のごとく島の人々を真っ二つに分ける城壁――それは半世紀を越えて今なお祖国に存在しているという作者の声が、行間から聞こえてくるようである。

 「日の丸」で「太極旗」を作り日本刀を振り回す、日帝時代からの呉巡査や、「島の者と見れば全部暴徒としか思わぬ西青(西北青年団=極右反共団体)の狂った殺し屋」を冷徹に描く作者の歴史を見つめる眼は、焦土と化した地図から消えた故郷の村を、統一した国土の中に捉えているに違いない。(金正浩、朝鮮大学校教員)

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