近代朝鮮の開拓者/文化人(13

鄭鎮石(チョン・ヂンソ


 
人・ 物・ 紹・ 介

 鄭鎮石(1911〜78年)ソウルの弁護士の家に生まれる。延禧専門学校に入学しマルクス主義に目覚める。明治大学や京都大学に留学して解放を迎える。帰国後、新聞社や延禧大学教授。解放後、北に向かい金日成総合大学哲学部の教授に。

朝鮮哲学史研究の先駆者/解放後、北へ向かい教べん

 解放後、共和国の哲学界を代表する学者の1人として活動し、朝鮮哲学史の体系化に力を尽くした人として鄭鎮石の名前を忘れることはできない。鄭鎮石は、日帝の朝鮮侵略が決定的となる時期、当時としては珍しい弁護士の子としてソウルで生まれた。

 彼は少年の頃から、祖国の運命をなげいて悲憤する父の書斎の本棚から、次々と文学書を選んで読んでゆき、しだいに詩や小説に親しみ、漠然と文学者になろうかと考えるようになっていた。

 ところが中学を卒業して1928年に延禧専門学校に入学すると、そこには教授陣として経済学者の白南雲をはじめとして、朝鮮の歴史や文化を新しい観点から解明しようとする、朝鮮学についての新進気鋭の教師たちがいて、大きな刺激を受け、啓もうされたのだ。

 こうして彼は、まずマルクス主義の世界観を学び、朝鮮における哲学の歴史を体系化したいと考えるようになった。

 そして、さらに深く勉強しようと明治大学や京都大学および大学院で7年間、朝鮮哲学史やマルクス主義哲学を学んだ。しかし、時代は作家・小林多喜二が築地署で虐殺(33年2月)されるようなファシズムの時代となっており、満足のいく勉強はできなかった。

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 解放を迎えて祖国に帰った彼は、友人たちと自由新聞を創刊し、その発行責任兼主筆として活躍するかたわら、母校の延禧大学で朝鮮哲学史を教えた。しかし南の情勢は悪化して行くばかりであった。新聞社も反動に乗っ取られ、大学も追放されてしまう。ちょうどこの時、平壌で南北連席会議が開かれ、彼は新聞記者会の委員長として参加するのである。

 連席会議の後、彼はそのまま北に残り、金日成総合大学で朝鮮哲学史の講義を始める。50年、朝鮮戦争が勃発し、人民軍によるソウル占領の短い期間、彼は淑明女子大学の学長もした。やがて軍は後退、戦線のこう着とともに、彼は平壌近郊に疎開した総合大学の哲学部に戻り講義を続けた。学生は前線から選ばれて学園に戻ってきた兵士たちであった。

 停戦(53年7月)の後、彼は南朝鮮出身の幹部を養成する松都政治経済大学(開城)の学長となるが、哲学史の講義は続けられた。

 そして60年、ついに彼と鄭聖哲、金昌元の3名の共著によって、わが国最初の哲学通史「朝鮮哲学史」(上)が出版されたのである。70年代の末、彼は南に残した夫人に会うことなく世を去った。(金哲央、朝鮮大学校講師)

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