語り継ごう、20世紀の物語

母に捨てられ8歳で奉公
逆境バネに幸せつかむ

韓又仙さん(76)


 目をつぶると懐かしい故郷の我が家が浮かんでくる。6歳まで過ごした慶尚南道高山。父母やおじ、姉と一家総出で田植えや草取りをしたこと。綿の収穫の前に綿のタネを食べて、オモニに叱られたこと。男の子たちと泥ん子になって遊ぶのでアボジが「男か女か分からない」とよく嘆いていたこと…。貧しい暮らしだったが、その頃が一番幸せだったと語る。

 大阪市港区に住む、女性同盟大港支部顧問韓又仙さん(76)。だが、子供時代の幸せは長くは続かなかった。

ヤマの飯場で過ごした孤独な日々

 1931年、関東軍は柳条湖事件(満州事変)を勃発させ、中国侵略戦争の端緒を開いた。朝鮮半島は日本の兵站基地と化し、民衆に対する収奪はますます横暴を極めていった。そんな中で韓さんの両親も離農離郷を余儀なくされ、一家で玄界灘を渡り、下関から兵庫の山村へと移り住んでいった。

  「故郷を後にしたのが、ちょうど六歳でした。今もその日のできごとは、家の畑に植えてあった菜っ葉や大豆、きゅうりの青々とした葉の色とともに、はっきりと覚えています」

 父と母と一緒に西は中国山地、東は足尾銅山の飯場を渡り歩く日々が続いた。住む家といえば、木造のバラック。中ではドラム缶のストーブがチョロチョロ燃えていた。天井は雨漏りがして、床からは隙間風が吹き込んできた。それでも両親が揃っている間は、3歳離れた姉と2人の笑い声が家中に弾けていた。

 翌年、父の仕事が甲子園球場のグラウンド建設現場に変わった。そんなある日、オモニが西ノ宮に買物に出かけたまま失踪するという青天の霹靂が起きた。「結局オモニに捨てられたという思いが今でも私を苛む。貧しくても、ひもじい思いをしてもオモニがいるだけでどんなに幸せなものか、その時身に染みて感じたものです」と涙ぐむ韓さん。

 8歳になったばかり。暮らしは暗転した。今もこの時の悲痛は心の奥深くに刻まれている。それから父と2人でオモニを探す流浪の旅が始まった。父はヤマの飯場を転々として、必死にオモニの行先を訪ねた。やっと11歳になった姉は姫路へ奉公に出された。仲のよかった姉妹は別れ別れになり、韓さんは1人ぽっちになった。

 「アボジが仕事から帰って来るまでは、飯場のおばさんの手伝いをして過ごしました。気に入られようと一生懸命働きました。そうしないとご飯が食べさせてもらえない。子供心にも必死ですよ」

 学校にもいけなかった。同じ年頃の子供たちの通学姿を眺めて、「学校に行きたい」と人知れず涙を流したのも、1回や2回ではない。同じ飯場には長くは居られず、慌ただしい暮らしが何年か続いた。子供の身にはもう限界であった。そんな様子を不憫に思っていた人が、姉と一緒に、姫路近郊の村の精米所に住み込みで働けるようにしてくれた。奉公先は幼児2人を抱える日本人夫婦だった。

 まだ夜も明けぬうちから夜遅くまで、炊事、掃除、洗濯、子守りと何でもこなした。とはいえ、やっと10歳と13歳になった幼い姉妹に村中の奇異の目が集まった。ある時、近所の人たちがこの夫婦に「あんな子供にタダ飯食べさせてどうするんだ。すぐ追い出した方がいい。家のものでも盗まれたらどうするんだ」と詰め寄っているのを見た。韓さん姉妹は悲しくて悲しくて仕方がなかった。

 「侮辱された悔しさよりも、また、父と一緒にヤマでの孤独な暮らしが始まるのかと思うと切なくてどうしようもなかったのです」

 幸い、家を追い出されることはなかった。しかし、姉妹を試すように、お金が入った巾着や釣り銭が家の中に無造作に置かれるようになった。2人の正直ぶりが確認されると夫婦は、サイフを預けたり、家事も全面的にまかせるようになった。総絞りの着物も作ってくれた。

 そんな4年が過ぎた頃、オモニが見つかって両親が2人を迎えに来た。「しかし、親に捨てられたというわだかまりは簡単には溶けません。むしょうに腹がたちました」。日本人家庭での住み込みの間、朝鮮語をすっかり忘れたと言う。その後、姫路の紡績工場に移り、そこで徴用された同胞労働者たちとの交遊が深まり、またウリマルが使えるようになった。17歳で、働き者の済州島出身の青年と結ばれ、飾磨で世帯を持った。夫は24歳。

 夫は軍需工場で働いていたが、激しくなる空襲の中で、今度は北海道の炭坑へ徴用された。両親は島根県へと疎開していき、また1人になった。

 しかし、9ヵ月後に夫は極度の寒さと炭坑の過酷な労働、栄養失調で妻の下に送り返されてきた。「久しぶりに見た夫は面変わりして、誰か分からないほどやつれていました。でも命あってのこと、ホッとしました」。

昼は日雇い仕事、夜は女性同盟活動

 そんな中で日本は敗戦。両親は姉と共に帰郷した。夫婦は大阪市港区に居を構え、解放の喜びに浸る間もなく、港朝鮮初級学校の建設や総聯、女性同盟の結成準備に勤しむ日々が続いた。

 子供も次々に生まれた。10人の内、無事に8人が健やかに成長した。家の中はいつも慌ただしかった。暮らしのために朝5時から職業安定所に出かけ、「失対」の日雇い労働の日々。この生活は70歳まで続いた。しかし、本業は女性同盟港支部委員長。夕方五時から同胞の家々を回った。阪神教育闘争や「外国人登録令」反対闘争など、草創期のたたかいの日々も忘れられない。子供たちも上の子が下の子のめんどうをよく見て、家事も分担してくれるようになった。

  「その頃、子供が作文に『うちのオモニはプルグン(赤い)オモニ』と書いたこともありました。家の中は支部の青年たちが毎日御飯を食べに来ていたので、何がなくても御飯とスープ、キムチはいっぱい作って置いていました」

 学校に通えなかった韓さんは支部の「成人学校」で母国語の読み書きを学んだ。「思えば8歳の頃から働くことを身につけたことが、私の人生に大きな実りをもたらしてくれました。とりたてて何かをしたわけではないが、8人の子供たちが皆、総聯の活動家として第1線で働き、いつのまにか孫、ひ孫は25人。みんなウリハッキョに通っています」。新世紀の正月には43人の家族に囲まれてにぎやかな団らんを過ごした。

 受難の世紀だった20世紀を体現するかのような韓さんの歩み。実直な資質によって、愛と民族性あふれる幸福な家庭を手にしたのだった。 (朴日粉記者)

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