地名考/故郷の自然と伝統文化

ソウル−A変せん

漢 陽、
(新羅)   
漢 陽、
(高麗)  
漢 城、
(李朝)  

   京 城
(日本が改称)

司空 俊


 伝説によると、高句麗王・朱蒙(チュモン)の2子・温祚(オンジョ)と沸流(プリュ)が広州で河南慰礼城(河南の城という意味)を造り、国号を百済と定めた。一説によると、その以前にソウルに河南慰礼城があったともいう。この地で五世紀には高句麗の全盛期を迎え、続いて新羅35代景徳王(キョンドワン、742〜765)は漢陽郡を置いた。

 高麗時代には12牧(牧とは地方中心地という意味)の1つの楊州牧になり、高麗15代王・粛宗(スチョン、1095〜1105)の時代には四京(西京―平壌、開京―開城、東京―慶州、南京―ソウル)の一つの南京になる。首都は松都(開京、現在の開城)である。高麗末1308年のソウルの名称は漢陽府である。

 李朝は国号を朝鮮と定め(1393)、翌年に首都をソウルに遷都した。当時、ソウルの名称は漢城府であった。李朝500年間の都となる。

 1910年、日本は軍事力で朝鮮を支配すると、漢城府を一方的に「京城府」と改称し、地方行政区に格下げし、植民地政策を推し進める拠点にした。

 例えば、峠の多いソウルの中でも比較的、平坦地の乙支路(ウチロ)の産業地区を「黄金町」と称し、忠武路(チュンムロ)には小売商を、駅に近い南大門一帯には金融業を集中させたのだ。

 また、日本は政治、経済、軍事などの重要な機関をソウルに置いた。その象徴が「朝鮮総督府」であった。民族の貴重な文化遺産である光化門(クァンファムン)が北漢山を背景にして絶美な姿を見せていたというので、ここに総督府庁を建てたのである。

 1910年頃の人口は29万人であり、日本統治下は90万人前後、解放時は120万人である。現在約1060万人であり、いろんな都市問題が指摘されている。

 「馬牛の仔(こ)は済州島に送り人の子はソウルへ送れ」ということわざもあるように、生きる道を求めて都会に行けば何とかなるだろうというわけで、人口が増え続けているからである。ともかく人口の5分の1以上、富の60%以上がここに集中しているのである。

 46年8月18日、米軍政のもとでソウルは特別市になった(93年、首都に定められて600年を迎えた)。

 もともとソウルとは都という普通名詞(高句麗のソウルは平壌、新羅のソウルは慶州、高麗のソウルは開城)であったが、解放後は特定地域をあらわす固有名詞となった。

 現在、ソウルは政治、経済、文化の中心地である。官吏も多いし、ブローカー、金融業の占める比率が少なくない。そして文化は「異化」している。とりわけ、明洞、武橋洞、梨泰院には古来の民族の美風良俗が消えつつあるし、外国の言葉や歌もはんらんしていると伝えられている。(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員

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