故 千田夏光氏を悼む

得がたい朝鮮の真の友

「従軍慰安婦」問題 本格的追及の端緒開く


 暮れの26日のこと、ある人から、諸新聞が千田夏光(本名貞晴)氏の訃報を載せていると知らされた。その朝、私は早く家を出たので訃報欄に眼を通していなかった。得がたい朝鮮の真の友を亡くした、というのが偽らざる実感である。千田夏光氏の死は日本の平和運動・反戦運動の点からはもとより、何よりも日本人の民族的良心から発する朝鮮と朝鮮人に対する、誠実な友人・支援者を失ったという喪失感の方が強い。

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 私が千田夏光という名を知ったのは、『 声なき女 8万人の告発・従軍慰安婦』という本を手にした、1973年である。日本軍の性奴隷にされた朝鮮女性の存在は帰国した高知浩氏によって知らされてはいたが、これ程、多方面に取材し、体系化された朝鮮人「慰安婦」の本は、多少なりとも問題意識を持ちながら全く手掛かりを得られなかった私にとって、驚きそのものであった。「従軍慰安婦」なる語が、いわば市民権を得て日本社会に定着してゆくのもこの本刊行以後である。

 1979年、朝・日合同の「広島長崎朝鮮人被爆者実態調査団」が結成されたが、その人選の時、意見を求められた私は「受け入れていただけるなら」の断りつきで躊躇なく千田氏の名を挙げた。そして、千田氏は広島班に、私は長崎班になったが、最終日の合同報告会の時、ある朝鮮人団員が驚きをこめて私に言った言葉がある。

  「千田さんのおじいさんか誰かが広島県知事をやったという話だ」

  私はいささか奇異な思いでこの話を聞いた。朝鮮人問題に誠実に対しているこの千田氏の何代か前のご先祖が天皇の忠実な高級官僚であったとは。この人は信頼できる、そう確信した。

 間もなく私は本格的に金玉均研究に取り組むことになるが、ある資料に、広島の旧宇品港跡地の千田公園に金玉均書の開港記念碑があるとあったので確認のため行くことにし、千田氏に電話を入れ、明治13年から10年間、広島県令(今の知事)をやった千田貞暁(さだあき)との関係をたずねたところ「貞暁は私の曾祖父に当たります」と言われた。現地へ行ったが玉均碑はなく、公園内には貞暁をまつる千田神社があった。

  千田貞暁は各地の県知事を歴任し、清日戦争で軍事輸送港として重要な役割を果たした宇品の築港者として男爵を授けられ、貴族院議員になっている。しかし、千田氏からはこの種の話は一切聞いたことがない。

  千田氏は大連生まれである。氏は『植民地ノート』で自己の原点ともいえるその大連での体験を含めた幼少期の思い出と、自己の思想形成期の問題、なかんずく植民地における、いわば加害民族としての日本人の歪んだ心のありようを淡々とした筆致で冷静に批判的な目で描写されている。しかも、ご自分についても、また、満鉄の土木技師であったご父君についても極めて客観的に対されていることには感銘させられる。

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 この他、千田氏は多くの小説、ルポなどで日本の侵略告発、天皇をはじめ戦争責任の追及を粘り強く続けている。

 ある時千田氏から、関東大震災時の埼玉本庄での朝鮮人虐殺を書くつもりなので資料があったら、との依頼があり、幾つかの資料を送ったが、後に小説『沈黙の風』を贈呈された。また何年か前、関東大震災時の朝鮮人虐殺を知りながら、何の反応も示さず、むしろ狂信的国家主義の田中智学の反朝鮮人言説を拒まなかった宮沢賢治を批判する文を朝鮮時報に発表した時、千田氏は即座に電話を掛けて来られて、「私にも賢治には幻想がありました。眼からウロコが落ちました」と感想を語っておられた。

 千田氏は「従軍慰安婦」問題の提起で、思いもよらぬ視点で天皇の軍隊の真の姿を浮かび上がらせ、また、別な面では、朝鮮女性史研究に大いなる画期をもたらされた。しかし、朝鮮人への深い思いに満ちたそのまなざしはもう再び見ることはできない。惜しい哉、悲しい哉。(琴秉洞・朝鮮近代史研究者)

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侵略戦争告発の足跡

 千田夏光さん死去 2000年12月22日、呼吸不全のため、東京都内の病院で死去。76歳。中国大連市生まれ。日大中退後、毎日新聞記者を務め、57年からフリーとなり、作家生活に。主著に「従軍慰安婦」「終焉の姉妹」「あの戦争は終わったか」「禁じられた戦記」など多数。多くの小説、ルポルタージュで、日本の侵略戦争と戦争責任を告発した。

 「従軍慰安婦」問題を告発する契機になったのは、1964年、毎日新聞発行の写真集「日本の戦歴」の2万数千枚の写真の選別と編集を担当した時。その作業の中に数十枚の「不思議な女性」の写真を発見して、「この女性の正体を追っているうち初めて 慰安婦 なる存在を知ったのである」と千田氏は著書「従軍慰安婦」の後書きに書いている。この本が世に出たのは、それから9年後、73年のことである。

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