障害もつ娘と歩んだ36年

1人の人間としてまっすぐに見て、

心の窓を開いてこそ

名古屋市の宋福徳、李寿恵さん夫婦


 世の中は変化しつつあるが、障害者をとりまく環境は相変わらず厳しい。名古屋市南区に住む宋福徳さん(78)、李寿恵さん(64)夫婦は脳性マヒの障害を持つ末娘の宋鈴華さん(36)と3人で暮らす。夫婦は総聯の草創期からの活動家。1959年の伊勢湾台風の直撃を受けた同胞の救済に走り回った日のことを、昨日のことのように語る。現在は愛知県本部南支部総聯・女性同盟顧問でもある。

1歳で脳性マヒと診断

 1964年、末娘の鈴華さんが産声を上げた。1500グラムの未熟児で、生後しばらく保育器に入っていた。長女と次女も健やかに成長し、ウリハッキョに入学させた頃。

 「生後6ヵ月の頃に40度の高熱が続き病院の診察を受けたが、異常ないといわれました」と李さん。が、1歳を過ぎても歩かないし、言葉も発しない。異変を母の直感で気づいた李さんは鈴華さんを連れて、大病院へ。その結果、脳性小児マヒと診断された。夫婦のショックは計り知れないものがあった。

 「日本の社会のものさしは人並みで標準ということ。そこからはみだすものは容赦なく切り捨てられる。朝鮮人の上に障害を持つとなると、娘が余りにも不憫」と李さんは当時の気持ちを振り返った。

 この日から母と子の必死の訓練が始まった。歩行訓練や言葉を話せるよう養護施設に通う日々。その傍ら、李さんはウリハッキョのスクールバスの運転手として、早朝と午後の2時間、バスで過ごすことになった。幼い娘を毛布にくるみ、運転台の側に置いた。李さんが忙しい時には、学校でもみてくれた。

 「その時のウリハッキョの子供たちの優しさ。みんなが可愛い、可愛いと遊んでくれた体験が、鈴華の心の中にずっと住みついているような気がします」

 しかし、鈴華さんの状態はあまり好転しなかった。3歳半の頃、夫婦は一大決心をする。「養護学校に入所させることにしたのです。今考えると、4歳の子供を一人で入所させるのですから、子供がどんなに寂しい思いをしたのかと、かわいそうで仕方ありません」

養護学校での9年間

 夫婦は子供を手放す辛さと悲しみに耐え、心を鬼にして小・中学時代を養護学校で過ごさせた。1ヵ月に1度の面会。休日に鈴華さんが帰宅した時は、泣きながら学校に戻るのが常だった。「私たちにとって子を思う一心でしたことだが、鈴華にとってその10年は一家団らんから締め出された辛い歳月だった。その心の傷は今でも奥深くで疼いているような気がします」。

 鈴華さんはその後、養護学校高等部に進学したものの、ほどなく退学した。その間、心の病が原因と見られる拒食症や急性腎不全などを患い、親子の闘病生活が続いた。父はその頃のことを「鈴華は家の太陽。どんなことをしても治してやりたい、ただそれだけでした」と言葉少なに語った。

 それ以来、夫婦は鈴華さんの心の傷をいやすためにあらゆる愛情を注いできた。「学校ではリハビリが進んで、運動機能的には左のマヒが残るものの随分よくなりました。でも囲いの中で得た知識は本当の身にはなりません。親元で買い物に行ったり、一緒に出かけたりする中で、他者の存在に気づいたり、関係が生まれてくる。そのことに気づかされたのです」

アジュモニが一番好き

 鈴華さんにとって家での新しい一歩が刻まれていった。女性同盟南支部組織部長として多忙な日々を過ごすオモニと毎日出かけ、母の仕事を理解するようになった。総聯の文化教室やハッキョの先生に家庭教師に来てもらいウリマルを習った。朝鮮語がメキメキ上達していった。家では一世の父が朝鮮の歴史を噛んで含めるように話し、鈴華さんは、家庭の中で自然に民族的な情緒を身につけていった。そんな頃、オモニと一緒に祖国訪問の旅へ。

 鈴華さんにとってその体験は心に深く刻まれる感動的なものだった。「海州市に住むイモたちが、この子をどんなに愛しく思ってくれたことか。それまでも、家の環境がそうですから、ウリナラが一番、ウリ民族が素晴らしいということは分かっていても、実際に祖国でそのことを実感したことで、鈴華は心が安らぎ、ぐーんと強くなってきたのです」

 愛国活動の傍ら、子供の治療費を捻出するために、父と母は朝から晩まで働いた。鈴華さんが18歳になって民間の福祉作業所で働くようになった。それから18年間、無遅刻無欠勤でまじめな勤務ぶりだ。作業所では責任者を務めたり、みんなの信頼を得ている。1ヵ月の賃金は1万円。ボーナスも少ないが貰える。

 「5人の甥と姪たちにお年玉や小遣いとしてあげるともう残りません」というほど、子供たちを可愛がっている。総聯の支部や大会にもよく顔を出して、話をするのが大好きだと言う。どこでも同胞たちが暖かく包み込んでくれて、いたわってくれた。「鈴華は朝鮮のアジュモニが一番好きだと言うんです。優しくしてくれるのは誰か、よく分かっているんです」。

 「体が不自由でも心がブスになったらいけんよ」というのが父が酔った時に鈴華さんに語る言葉。障害者への偏見が同胞社会に全くないわけではない。李さんの耳にも「あんな子供がいてよくあんなに大声で笑えるな」という陰口が聞こえたことも。でも、支えてくれる温かい支援の輪の方がもっと強かった。「女性同盟の活動の中でオモニたちに励ましてもらったから、ノイローゼにもならず、鈴華と2人3脚で今日までやって来れました」と謙虚に語る李さん。そして、同胞社会に心から望みたいこととしてこう話す。

 「障害者を偏見で見てはならないということです。1人の人間として真っ直ぐに見てほしい。障害者が生きにくい社会と言うのは、結局私たちも生きにくいのです。もっと心の窓をオープンにして、困った人がいたら積極的に手を差しのべてほしい」 (朴日粉記者)

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