「ハンギョレが伝える南北の手紙」から @

娘インジャへ

リュ・リョル(社会科学院 教授)


 離散家族の手紙交換と面会所の設置問題が赤十字会談で論議されているなか、南の新聞ハンギョレは1日付から11日付まで「ハンギョレが伝える南北の手紙」という新年企画を掲載した。ハンギョレ新聞社の提案に北側が応じ実現したこの企画では、昨年、離散家族交換訪問の際に南側の家族と再会したリュ・リョル(83、社会科学院言語学研究所教授)、キム・オクペ(63、平壌音楽舞踊大学教授)、チュ・ヨンフン(72、前建材工業相)、キム・ヨンファン(70、金日成総合大学教授)、九月に送還された非転向長期囚のシン・イニョン(72)の各氏の手紙と、南側の家族が送った返事を、交互に掲載した。北側との約束に従い、文章は原文をほぼそのまま掲載した(ただし、文章によって長短があるため、一部文章は若干縮めたという)。そのうち、リュ・リョル氏の手紙と、娘インジャ氏の返事を2回にわたって紹介する(翻訳・編集部)

再び会える統一の日を思い

 懐かしくて会いたい私の娘、インジャよ!

 おまえと優しいおまえの夫、そして孫、ひ孫たちみなに、新年2001年を迎えて祝福を送る。そして、北にいるおまえの母と、兄弟であるトゥリ、ハンボ、トゥボ、ミラの新年のあいさつも一緒に伝える。去る8月に、50年もの間、生死を知るすべもなかったおまえに会い、血肉の厚い情を交わしたあの出来事が、今も夢のようだ。会って過ごしたあの3日間、一瞬たりとも私の側を離れなかったおまえの姿と、叔父のリュ・スンジュ氏、リュ・ジェヒョン氏、妹のアルバムで見た甥たちの表情が目に浮かぶ。脳血栓で治療を受けたという甥、セミンの健康はどうだろうか…。

 インジャよ! 甥、トンミンをはじめ一家親戚全員に、私が会えなかった彼らみなに、私のあいさつを伝えてほしい。そして、古き友人であるハングル協会理事長、ホ・ウン先生にも、私のあいさつを必ず伝えてほしい。

◇                        ◇  


 インジャよ! 父の心配は少しもするな。

 私は今、とても健康で仕事をしている。統一の大綱、6.15北南共同宣言は、私に八十の高齢を忘れさせ、民族のための学者の任務を果たすよう、生の大きな活力を与えてくれた。

 今、私は「朝鮮語・現代語|古語辞典」を編さん、執筆している。ずっと一つの言語と一つの血筋で生きてきた純潔なわが民族が団結し、統一聖業に少しでも寄与するのが、父の所信だ。

 光復前には、朝鮮語を守ろうというただ一つの理由で、ひどい迫害を受けてきた私を、母のように導き、われわれの言葉と文化を花咲かす立派な学者にしてくれ、こんにちは院士候補、教授という身に余る栄光を与えてくれたありがたい恩徳、その恩恵にこたえるために、父は残りの生をすべて捧げたい。

 おまえの母と兄弟もみな元気だ。

 私は、南側の私の息子、孫たちみなが、心も健全で、体も丈夫で、民族に正直で、堂々としていて、有能な人間になってくれることを、心から願うのみである。

◇                        ◇

 私はソウルへ行って、私たちの言葉を守り、後代へ引き継ぐ学者の責務がいかに重く重大かを今一度、痛感した。

 私たちの言葉とともに平壌を歩いてきた、この父の願いは唯一つ、私の孫やひ孫たち、そして北南のすべての子供たちが、民族の血と魂をしっかりと持った愛国者に育ってほしいということだ。

 これは、私一人だけでなく、民族の魂を守る立場に立った北と南の言語学者みんな同様だと話していた、ハングル学会理事長のホ・ウン先生をはじめ、志のある人みんなの切実な願いであろう。

 そうして、私はソウルに行った時、おまえに孫娘が生まれたという嬉しい知らせを聞き、その子の名前をヨウルと名付けた。

 私の貴いひ孫、ヨウルは、新世紀の前夜に生まれた幸せな子だ。

 北と南のすべての思いをこめた大小の小川が、合流地点の早瀬に達し、歓喜に沸きながら、深い川、広い海を目指して流れて行く。 故郷山村の郷愁を担ったこの子なら、誰もが持つ幼い頃の美しい思い出を呼び起こすヨウルなら、その名を聞いて、統一の海へと向かう時代の流れを感激の中で見つめる、この老人の思いが分かるはずだ。

 貴い私の娘、インジャよ、別れたわが民族が抱き合って踊る統一の日はもう遠くない。

 また会う日まで、どうか健康で。おまえとおまえの家族みなに、父の厚い祝福を送る。

 チュチェ89(2000)年12月25日  平壌にて   父より

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