ウリ民族の姓氏−その由来と現在(9)
中国式に王名変えた後期新羅
起源と変遷(7)
朴春日
三国時代が終わりを告げたのは、覇権を争う新羅が唐帝国と連合し、660年に百済を、668年に高句麗を滅亡させたからである。
しかし、新羅は大同江以南を統合しただけで、北部では旧高句麗の遺民たちが大祚栄(テ・ジョヨン)将軍に率いられ、果敢な反唐闘争を繰り広げていた。 後期新羅王朝の事大主義的病癖は、自国の王名を中国式に変えた事実に象徴的に現れる。 すなわち新羅は始祖・朴赫居世居西干以来、第23代からは中国式に法興王、真興王、真平王などと称した。 その背景には、国土統一をめざす高句麗の進出があったが、新羅は領土拡張の宿望を実現するため、真平王33(611)年には隋の煬帝に高句麗攻略を懇請した。そして高句麗―隋戦争が始まり、隋が滅んで唐が登場すると、再び唐に高句麗・百済攻略を懇請し、結局、同族国家を滅ぼしてしまったのである。 以来、新羅王朝は唐帝国に阿附(あぶ)迎合し、自国の年号と官制だけでなく、婦人の服装まで唐式に変えるという追従ぶりを露呈した。そればかりか、古来、固有語から成る新羅の人名・地名・官名まで漢文化した。 たとえば地名は、沙伐州(サボルジュ)→尚州(サンジュ)、完山州(ワンサンジュ)→全州(チョンジュ)などと変え、人名の場合は、固有語の幼名「阿海(アヘ)」に「金宝姫」を、「阿之(アジ)」に「金文姫」を加え、1人の娘が2つの名前を持ったのである。 むろん、それは支配層内の現象であるが、一般民衆の言語生活では、依然として固有語が基本であり、文人たちの間では吏読(リドゥ)を発展させた「郷札(ヒャンチャル)」によって、多くの文学作品が創作された。 一方、旧高句麗の大祚栄将軍は、熾(し)烈な反唐闘争を続行していた。 そして新羅の支配層も、唐の狡猾(こうかつ)な侵略野望を見抜いて共同戦線に加わり、ついに唐の侵略軍を鴨緑江以北へ駆逐した。 こうして大祚栄将軍は、698年、高句麗の故地にその後継国家―渤海(パルヘ)を樹立し、自ら王位についたのである。 渤海は政治・経済・軍事・文化など、あらゆる面で高句麗の伝統を継承、発展させ、近隣諸国から「海東の盛国」と讃えられるまでになった。 その王室は「大(デ)氏」と称し、高句麗の「高氏」と同じく解慕漱(ヘモス)の後孫であることを誇ったが、支配層の姓氏は高句麗とほとんど同じであった。 たとえば、日本の平安京に派遣された親善使節団の顔ぶれをみると、高・王姓が圧倒的に多く、李・裴・楊・鳥・慕・張・史・賀・門・壱・呂と続いている。(パク・チュンイル、歴史評論家) |