ウリ民族の姓氏−その由来と現在(11)

「族譜」の祖型である「譜牒」

起源と変遷(9)

朴春日


 わが国の統一封建国家時代は、高麗王朝と朝鮮王朝の2つの時期を包括するが、姓氏の変遷史から見ると、画期的な進展が生まれたのは高麗時代である。

 それはひと言でいって、檀君朝鮮以来、姓氏を用いたのは王侯貴族や士族らの支配階層に限られていたが、そうした制約が高麗時代に大きく崩され、一般の庶民層にも姓氏を持つことが認められるようになった事実である。

 それを具体的に見ると、史上初の統一国家を樹立した高麗の太祖・王建は、何よりも民族内部の和合と大団結を図るため、諸豪族と功臣らの婚姻、賜姓などを積極的に行い、庶民層の生活安定と政治的諸改革、そして旧高句麗の領土回復などの基本政策を強力に推進した。

 こうした太祖の政策は、その後の高麗国王にも引き継がれたが、なかでも第4代の光宗は、従来、豪族や功臣の子弟を優先的に高級官吏に登用していた悪弊を正し、科挙の制度を導入することによって、新進気鋭の人材を広く在野から選抜する道を開いた。

 そして、それらの改新は第6代の成宗によっていっそう整備され、第11代・文宗の時期に至っては、ほぼ完成段階に入ったといってよいだろう。

 とくに文宗は、姓氏の使用が普遍化する社会のすう勢を踏まえ、役所に姓氏と血族の系統を記録した台帳を備えさせ、科挙に応試する者たちの身分関係を確認する措置をとった。

 また「宗簿寺(チョンブシ)」という役所には、各氏族の系譜を記した「譜牒(ポチョプ)」という文書を管掌させたが、これがわが国における「族譜(チョクポ)」の祖型となったわけである。なお「寺(シ)」とは、役所名の下につけられた用語である。

 高麗時代の社会的身分は、王族と貴族、良人(リャンイン)と賎民(チョンミン)の4つから成っていた。このうち支配階層に属するのは、王族を頂点とした文班と武班、すなわち両班貴族の高級官僚と、中流層に属する下級官吏、つまり中央官庁と宮中の役人、そして地方官庁の郷士と下級将校らが含まれていた。

 一方、被支配階層は、まず良人、つまり平民であるが、ここで圧倒的多数を占めたのは農民であり、手工業者や商人もこれに含まれていた。また最下層の賎民と呼ばれた人たちは、公私の奴婢(ノビ)と白丁(ペクチョン=と殺業者)や被差別地域の住民である。

 この被支配階層の中で、新たに科挙応試の資格が認められたのは良人だが、この事実はそのまま当時の平民層がすでに姓氏を有していたことを物語っている。それは先の文宗が、「姓氏を持たない者には科挙に応試する資格を与えない」と布告していたことからも確認できよう。

 このように、わが国では高麗時代、すでに一般庶民に至るまで姓氏を持ち、それを日常生活で使っていたのである。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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