語り継ごう20世紀の物語

金桂和さん(64)

「朝鮮のイルムで呼んで下さい」と日本の学校で頑張った


 金桂和さんは寿司屋でアルバイトをしながら娘さんと2人の孫に囲まれてくらしている。育ちは下関だが、1991年娘の夫が事故で亡くなり、お葬式に参加した後、そのまま娘のいる広島県西区に住むようになった。

 そんな金さんの楽しみは月に2度のチョング(青丘)学習会。60〜70代のハルモニ、ハラボジたち15人が集まり、中学校程度の算数、理科、書道などを広島県立西高等学校の先生が教える成人学校だ。

 チョング学習会は5年で卒業だが、金さんは一旦卒業して、また最入学したので今年で6年目になる。好きな科目は書道と算数。「中学校にちゃんと通えなかったので、勉強できるのが本当に嬉しいのよ」と話す。

 金さんは37年10月、6人兄弟の次女として忠清北道で生まれ、41年、4歳の時日本に渡ってきた。

 「その時の事はほとんど覚えていないわね。覚えていることは、日本に行くと言う事で良い服を着せられた事と、見送りにきた叔母がくれたピンクの帽子が、風で飛んでしまったことくらい。帽子が残念で泣いているうちに日本につきました」

 先に日本に来ていた父親は、下関の山奥で、日本人の農家の手伝いや炭を焼いて生計を立てていた。家は鳥小屋のようなところにゴザをしいただけの粗末さ。金さんと兄弟たちは久々にアボジに会えたのをよろこんだが、母親はこれからこんなところに住むのかと泣いていた。

 44年、7歳の時約8キロほど離れた日本の学校に通った。「アボジが編んでくれる草履の底が毎日破れてしまいました」。当時、金さんは 朝鮮語しか話せず、授業もよくわからならなかった。覚えているのは「さくら、さくら」とか「赤勝て、白勝て」といった教科書の文句。先生の名前などはまったく記憶にないそうだ。

 45年、朝鮮が解放され、下関からたくさんの同胞が故郷へ帰った。ハルモニも家族と一緒に下関で船の順番待ちをした。時には何日間も浜辺に座って順番を待った。結局船には乗れず、家族ともども日本に残ることになった。

 46年、今の下関朝鮮初中級学校に隣接する昭和館という建物に国語講習所ができた。勉強をした記憶よりも、先生たちが夜も寝ずにビラを作り、学生たちものりを作って、ビラを貼ったりという手伝いをしたことの方が記憶が鮮明だという。

 6年生の時、日本当局の学校閉鎖令によって学校がつぶされた。

 「気性が激しかったのね。みんなとスクラム組んで警察と闘いましたよ。その時警察にこん棒で頭を殴られました。ミソとタバコの葉をつけて治療しました。その傷はまだ残っています。学校を守らなくてはという気持ちの方が強くて、恐怖心はまったくなかった」

 結局、学校は閉鎖されてしまい、近くの向山小学校に朝鮮人ばかりのクラスが作られた。

 「先生に『朝鮮のイルムで呼んでください』といって日本語の名前では返事をしなかったのよ。先生がしょうがなく『金さん』と呼んでも返事をせず、『キン・ケファ』と言ったら『イェ』と答えたのよ。それで『イェじゃなくてハイといいなさい』といわれても絶対言わなかったのよ」

 先生が黒板に向かって字を書いている時は後ろからケシゴムや、ノートを投げた。「今やったらノートって安いけど、その当時は貴重でね。それでも投げたのよ。もちろん先生が取りに来なさいといっても、知らんぷりしてね」。結局昭和館の方に日本の先生が通うようになった。それでも金さんら学生の抵抗は続き、とうとう先生が来なくなった。

 中学は日本の学校に通い、夜間に東京からくるソンセンニム(先生)から朝鮮の言葉、地理、歴史を学んだ。

 当時は母親の商売を手伝ったり、弟妹の面倒をみるためほとんど学校には行けなかった。

 ピダンチャンサ(朝鮮の布を売る店)と日用雑貨屋をやっていた、金さんのオモニが積極的に総聯の活動家を助けていたことが印象的だという。「服や、パンツ、シャツなど売るものがなくなってしまうくらい、たくさんあげていましてね。よく裏から入れてご飯を食べさせたりしていました。おこずかいもあげていたようです。子どもたちがおこずかいを欲しいと言っても、くれなくて私たちはいつもピーピーしてたのに(笑)」。

 オモニは4年前亡くなった。その時、祖国からもらったメダルがたくさん出てきた。「でるわ、でるわ。あんなにあるとはしらなかった」。日本各地のイルクンから弔電もたくさん届いた。「今考えたらオモニは本当に立派だった。私はオモニの10分の1もできていないわ。私の孫たちまでは皆ウリハッキョに通っているのよ。オモニの心がひ孫まで受け継がれているのね」。

 金さんが中学生の頃、今の下関朝鮮初中級学校の建設工事が始まった。昭和館は取られたまま返してもらえず、横にあった山を崩して学校を建てることになった。分会ごと担当場所をきめて山をブロックで崩した。金さんのアボジもオモニもそれに参加し、金さん自身が手伝う事もあった。機械もない時代、全部手作業だ。校舎ができあがった時、同胞は運動場で歌って踊って、お祭り騒ぎをした。

 「最初は中をしきっただけのバラックだったねえ。私が知っているだけで、そのあと2回建てなおした。今は校舎も立派だし、体育館もできた。私が国語講習所に通っていた頃に比べウリハッキョも随分水準が高くなったでしょ。朝鮮学校を卒業して弁護士や医者になるひとも多いみたいやし。これからも民族教育を守って欲しい」(金香清記者)

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