京都コリアン生活センター
「エルファ」奮闘記(1)
孤独な1世の姿に衝撃
1998年に設立された京都コリアン生活センター「エルファ」は、同胞高齢者に穏やかな晩年を提供しようと、同胞高齢者の歴史と現状に合ったきめ細かい介護事業に取り組んできた。その活動が評価され、このたび「2001年毎日介護賞」を受賞(「ニュースピックアップ」参照)。3年間にわたる活動の軌跡を鄭禧淳所長(56)に語ってもらった。
「エルファ」とは朝鮮語でうれしい時、楽しい時に出る感嘆符。在日1世が日常的に故郷の言葉と味、文化に触れられる介護事業を始めようと思い立ったのは、異国で苦労を重ねた彼らに穏やかな晩年を過ごして欲しいと思ったからだった。
今春、京都市南区に建てたデイサービス施設には毎日20人ほどのハルモニ、ハラボジらが訪れる。生まれ故郷に思いをめぐらし、異国での苦労をしみじみと語る。 とにかくよく話し、笑い、歌い、そして泣く。午後はきまってチャンゴに合わせてチュンパンが繰り広げられる。 暗いアパートで「死にたい」と口ぐせのように繰り返してきたハルモニは、17年ぶりにウリノレ(朝鮮の歌)を歌い、90歳のハルモニは孫から「奇麗になったとほめられた」。 「エルファ」は、過去を伏せて来た1世が自然体でいられる空間だと思う。 根を腐らせない 98年6月に京都同胞生活相談所所長に就任し、同胞の生活相談を日常的に受けることになった私は、同胞高齢者が置かれた現状を耳にして大きな衝撃を受けた。 同胞家庭における老人の介護は、女性が負担している場合が多い。彼女たちから相談を受け見えてきた現実は、1世が話す朝鮮語がわからず、家族すらコミュニケーションをとれない実情だった。故郷で成人した1世は、痴ほうとともに日本語を忘れていく。 最初この話を聞いた時、「ありえない」と思った。しかし、今考えてみると同胞社会の現状についての認識が甘かった。民族教育を受けた同胞は全体のたった2割に過ぎない。 高齢者の生活実態を知ろうと家庭訪問を繰り返したが、実情はより深刻だった。日本政府の差別政策下、無年金状態に置かれ、経済的基盤のない高齢者が多く、子供に先立たれ1人ひっそりと暮らしている1世もたくさんいた。身の周りの世話をする家族や親類がおらず、体がどんどん弱っていき、友達にも会えない。 1世は在日朝鮮人運動の創始者であり、運動を引っ張ってきた「根っこ」だ。その彼らが言葉と文化の違いから、地域の福祉施設にもとけ込めない姿に心が痛んだ。 「根っこを腐らしては駄目だ」――。1世が穏やかな晩年を過ごせる場所を作ろうと心に誓った瞬間だった。 組織的な対策 介護保険の施行は目前に迫っていた。対象は原則65歳以上の高齢者で、40歳以上が保険料を徴収される。 しかし、食生活、言葉をはじめ、文化の異なる同胞高齢者に合ったサービスは提供されないだろうし、行政も頭にないだろう。組織が対策を講じなければ1世は保険料を納めるだけで、制度の置き去りになると思った。 朝鮮語や朝鮮の文化に精通したヘルパー育成が急務だった。97年に成立した介護保険法を何度も読み返し、どのような形で受け皿を作るのかについて医療法人共和会の朴春浩理事長ら専門家に相談した。 そして、98年10月から朝鮮語が話せる同胞ヘルパーの育成に着手。99年11月に2人のヘルパーとともに居宅サービス事業所「エルファ」を設立し、介護保険が始まった2000年4月、訪問介護サービスを始めた。 訪問介護、通所施設 当初は利用者が伸びなかった。府下の総聯支部に1万枚のチラシを配ったり、個別訪問し、対象者の掘り起こしに努めた。136人を訪ねたが、介護保険に対する理解は皆無。植民地支配で苦渋を味わった1世は行政サービスに対する不信が根強い。制度を説明し、サービスの申請を促した。 同時に、同胞社会の関心を喚起しようと、「在日同胞と介護保険」などをテーマに40回以上、同胞、日本市民らのべ1400人の前で話をした。 高齢者を訪問する過程で家族とともに住んでいる同胞や元気な老人をどうするかという点も気になった。彼らの多くが「話を聞いて欲しい」「昔の仲間に会いたい」と望んでいた。高齢者が集う場が必要だと思い今春、さまざまの同胞の協力を得てデイサービス施設を建てた。(語り・鄭禧淳所長、整理・張慧純記者。つづく)=次号から水曜日に掲載 |