ハンセン病克服した李乙順さん
自伝「私の歩んだ道」出版
桂川潤さんとの共同作業で
過酷な植民地支配、貧しさゆえの渡日。しかし、ここでも極貧生活を強いられ、ついには当時、不治の病とされていたハンセン病に。このほど李乙順さん(77)が上梓(し)した「私の歩んだ道―在日・女性・ハンセン病」には、1人の朝鮮女性の苦難の歩みが綴られている。読み書きができない李さんの聞き書きを担当したのが、桂川潤さん。2人の出会いが、苦難の中にあっても、希望を失わず歩んできた李さんの人生を輝かしいものにした。(朴日粉記者)
苦難の半生、希望失わぬ笑顔
李さんは1925年に日本の植民地支配下の朝鮮・慶尚北道星州郡龍岩面明浦洞に生まれた。7歳の時にすでに渡日していた父の後を追って、母と共に日本に来た。父は島根県の山奥で炭焼きをしていたが、李さんは学校に入れてもらえなかった。この自伝の中でも、「李さんは字を知らないために、馬鹿にされたことが悔しい」と繰り返し語っている。 貧しい暮らしの中で15歳で結婚。河本と名乗る朝鮮人だった。子供だった李さんはなぜ結婚させられたのか分からない。親の一存だった。苦労の多い結婚生活がスタートした。3人の子供が生まれたが、その上に幼い小姑2人の世話も肩にのしかかったのだ。戦争末期で、食べる物も着る物も、手に入らない時代。李さんは過酷な運命から逃げずに、懸命に生き抜いた。 ヤミ米を買って、朝鮮飴やドブロク、焼酎を製造して売った。土方もして、工場に働きにも出た。休む暇もないほどの重労働と栄養不足。知らず知らずのうちに李さんの健康は蝕まれていった。3番目の子供を生んだ時に、血が止まらず、血が塊となって10数回も流れた。それでも仕事を続けねばならない。病が進行した。顔のはれが目立つようになっていった。周囲の人が警戒して露骨に避けるようになった。「あんた来るな、水もやらない」と言われた。保健所でハンセン病と判定された。 家が消毒され、その家にハンセン病患者がいることが分かると村八分になる。 小学校1年の長男は仲間外れになり、学校も行けず、家の中にこもるようになった。夫はやけを起こして家出、医者も恐れて診察拒否。こうした仕打ちに、李さんは子供を残していくことに悩んだ末に、瀬戸内海の長島にある岡山県邑久光明園に入所することを決断した。49年のことである。 当時の心境を「もう、目の前が真っ暗。あの頃ライ園に行くといったら、もう生きては帰って来ないって聞いてたから、死ぬしかないのかと思っていた」と振り返る。
歩みは平坦ではなかった。その後7〜8年、光明園と島根を行き来しながら、子供たちの面倒を見た。新薬プロミンの治療によって、病も快方に向かった。しかし、社会の偏見だけは変わらず、患者だと分かれば、バスから下ろされたり、汽車にも乗せてもらえなかった。その後、李さんは多磨全生園に移り、63年、尹次守さんと結ばれた。悲惨な体験と苦難の日々のなかで、優しかった尹さんとの出会いは、神様の贈り物のような幸せを李さんにもたらした。
今年、喜寿を迎える李さんにとって、自伝の出版は「子や孫に伝えていきたい長い間の夢」だった。自身の受難と家族の人生を踏みにじったハンセン病の強制隔離政策の残酷さ。そして、どんなに悲惨な中にあっても、人間としての意思と希望を抱き、苦しみを乗り越えた李さんの勇気と強さ。その間、李さんはハンセン病国家賠償請求訴訟の東日本訴訟の原告に加わり、今年5月には熊本地裁で国側全面敗訴の画期的な判決を勝ち取った。 聞き書きをした桂川さんは、20年前に立教大学山田(昭次)ゼミがまとめた「生きぬいた証に――ハンセン病療養所多磨全生園朝鮮人・韓国人の記録」(緑陰書房)で、李さんを担当した。「当時、まだ話せなかったことを、ぜひ話したい」という李さんの願いを聞き入れ、2人の共同作業によって、生まれたのがこの本である。 桂川さんは多磨全生園の近くに引っ越し、市民農園を借りて、野菜作りが自慢の李さんとのコミュニケーションを大切にした。「子育てから野菜作り、朝鮮料理など、李さんとは気兼ねなくお話しができ、家族的なつきあいが深まりました」と微笑む桂川さん。その優しい人柄と愛情が、記憶の奥に封印されていた李さんの過去を包み込み、溶かすようにして話がまとめられていったのだ。桂川さんは「李さんの話は、在日朝鮮人史、女性史、非人道的ハンセン病史政策の歴史などさまざまな問題を浮き彫りにしており、いわゆる個人史にとどまらない広がりをもっていると思う。李さんの苦難の人生をぜひ、多くの人に知ってほしい」と話す。 |