朝鮮学校との交流を重ねて

墨田区立木下川小学校  雁部桂子

人が互いに尊敬しあって生きるとは何かを学ぶ

学習会のあとで感想文の用紙を配る雁部先生(写真提供は楠山忠之さん) 朝鮮学校の教室で全員で記念写真(写真提供は楠山忠之さん)

 自分が写した「私の家族」を発表し合った時の事です。朝鮮学校のAさんが友だちの手を振りはらって「この写真は…」と、しっかりした声で発表し始めました。

 子どもたちも呉揚善先生も私も呆気に取られました。Aさんは、今まで友だちの手を借りなければ、何もしない子と思われていたからです。発表後、教室はいつまでも拍手に包まれていました。Aさんの「やる気」は、他者を意識することで芽生えてきたのだと思います。

 ビデオで、と畜の場面を見た時、朝鮮学校の子たちの「気持ちが悪い」と言う言葉に、木下川の子たちが怒りました。と畜をしなければ、木下川の主な産業である皮革工場の原料の皮はできないのです。

 全員で皮革工場見学をしました。まとめをする木下川の子たちの調べに、熱が入ります。朝鮮学校の子に、「なんとか分かってほしい」と思ったからです。発表は皮革工場の仕事への誇りに満ちていました。朝鮮学校の子たちは、真剣に聞き入り、木下川の子の思いに応えてくれました。「ブタ調べ」のまとめは、「ブタは食べるためにつくられた」という結論になりました。木下川小のBさんは「もう本当にわかってくれたから、心配しません」と書いていました。

 子どもたちは、共に机をならべ、博物館へ行って調べたり、物作りをしながら、楽しい時をすごしました。同時に、厳しい対立の場面をも経験したのです。本当は互いを理解するには、仲良くなるだけではなく、相手の思いに共感したり、葛藤を経ることなしにはないのだと思います。

共感して、葛藤も

 昨年度、朝鮮学校と木下川小の3年生の合同総合学習は1週1回のペースで1年間続けられました。名刺交換、自分の名前の意味、フィリピンのお菓子「タロン」作り、ソーセージ作り、「ブタ」についての調べ活動、皮革工場見学など盛りだくさんな内容でした。教師の願いもありましたが、多くが子どもたちの興味や、関心に基づいて進められました。

 2つの学校の子どもは朝鮮、韓国、日本、バングラデシュ、フィリピンと5カ国にわたっていました。なんと豊かな文化の交流だったことでしょう。

 私が、朝鮮学校と交流を始めたのは、もう10年近くなります。始めは、日本の学校に在学する朝鮮の子に、朝鮮の文化を伝え、孤立しがちな子を、同胞とつなげたいと思ったからでした。

 交流を続けているうちに、これは日本の子たちにとっても、大切な事だと思うようになりました。日本の子たちは、朝鮮との歴史や今の日本のありかたを通して、自分の姿を鏡に映すように学んでいったのです。それは、教師である私も同じでした。朝鮮の子たちも、日本人と接することで、あらためて、自分を問い直し、「民族の誇り」を自覚していきました。それは、人が互いに尊敬し合って生きるとは、どういうことかを、自分たちで探っていく試みでもありました。

 また、日本の子たちも、朝鮮の子たちも、一人ひとりがさまざまな問題をかかえ、今を生きています。さまざまな差別や偏見を見抜き、価値観を問い直すことは、自分を見つめ直すことでもあったのです。自分を変えていこうとする力を互いが育むことにもなりました。

自分変えていく力

 合同学習を通して、私は朝鮮学校の現実を直に知ることになりました。「朝鮮学校の子どもを、今から荒川に放り込む」という脅迫電話がかかってきていました。最も心を痛めるのは、民族に対する差別が続いていることです。政治的事件が起きるたびに、朝鮮学校の子どもたちが危険にさらされています。朝鮮学校の教師たちの心労は察するに余りあります。

 「授業料が払えないのを、この子はとても気にしています」。事情のありそうなCさんの事をたずねた返事でした。税金を払っているのに、民族学校への教育費援助は微々たるものです。ユネスコが勧告しているように、教育差別です。一条校の問題もしかりです。

 私のクラスのフィリピンとバングラデシュの子が、「朝鮮の子はいいな」と、しみじみ言っていました。自分たちの民族の言葉や文化を学ぶ学校があるからです。日本に全ての在日の子どもたちの学校があったら、どんなにすてきでしょう。

 日本の子と朝鮮をはじめとする多くの東西アジアの子たちが、制度的にも平等であることの上に、人と人とがつながり、豊かな共生の社会を築くことができるのだと思います。

 ささやかな合同学習ですが、その一歩であることを願ってやみません。

日本語版TOPページ

 

会談の関連記事