「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―(14)権仁燮

忘れられた大国

「海東盛国」ー高句麗の後継国


渤海

 698年、高句麗遺民の大祚栄(テジョヨン)が「振(震、ジン)国」を建国し、後に「渤海(パルヘ)」と改称した。大祚栄は自ら「天孫の後裔」だとし、高句麗と同様な血脈を引き継ぐ天神の後裔だと主張している。渤海は旧高句麗の領土をより拡大し、現在の中国東北部のほとんどを占め、約200年にわたり「海東盛国」として、朝鮮史に輝かしい一頁を刻んだ国であった。

 全国を5京・15府・62州に分け、王を頂点とした封建国家を形成した。その領土は広く、麦、大豆、米などの農産物、鹿、熊、虎、豹、テンなどの毛皮類、繊維製品、陶器、金属製品などの生産が盛んであった。それらの品々は交易品として日本に持ち込まれ、非常に珍重された。渤海使が来るたび日本の貴族はそれらの品を求めて賓館に押し寄せ、中には真夏にもかかわらず、早くに渤海から輸入して持っているテンの毛皮を数枚も重ね着してこれを自慢する者もある程であった。

 794年から首都であった上京龍泉府は、外城が16キロメートルを越え、東西南北の城壁に合計10カ所の門があり、城内には東西南北各5本の大路、また城壁に沿った大路があり、大路で区分された各里坊内には寺院、住居、市場など、整然と区画された都市造りが行われていた。

 王の住む宮城は周囲約4キロメートルで、宮城内には5棟の建物があり、溶岩や花崗岩を磨いて造った礎石の上に、極彩色の柱、三彩瓦などで飾られた建物が並んでいた。現存する石灯籠は勇壮で豪華な彫刻で、建築水準の高さを偲ばせる。

 王族の墳墓は高句麗特有の墓制であった。「石室封土墳」が主であり、大型のものにはドーム式天井が採用されている。現・敦化県六頂山の貞恵公主(第3代王の次女)墓などがその典型の一つである。

 一般住居には朝鮮民族の居住地に特有の暖房施設―温突(オンドル)が設置されていた。

 高麗はその建国以来、渤海の旧地回復を目指していたが、朝鮮王朝以後、中国に対する「事大政策」により、その領土とともに歴史をも放棄してしまった。「忘れられた大国」という所似である。18世紀の実学者はこれを強く批判し、渤海を朝鮮史の一部分に組み入れるよう主張している。

 中国の史書類は、大祚栄を「高句麗人の別種」、つまり靺鞨(まつかつ)族であるかの如く書き、渤海を高句麗の後継国であることを認めようとはしなかった。多大な被害者を出して滅亡させた高句麗の後継国が存在するということは、唐として認め難いことであったのであろう。こうしていつのまにか渤海は中国史の中に組み入れられ、中国・日本では当然のごとく現在まで受け継がれている。

 渤海史は朝鮮民族史の一部であり、建国以来日本との交流の深かった国だ。

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