東京中高創立55周年行事に参加して
オモニの思い、子へ孫へ
植民地時代過ごした3姉妹
(左から)韓末順さん、今順さん、用順さん
中でも目を引いたのは、特設ステージ前の観客席で、肩を並べる3人の年輩女性たちの姿。 「ずいぶん早くいらしたんですね?」と話しかけると、その中の1人が「孫がねぇ、カレーライスを売るって言うんで、買いに来たんだよ。でも、どこにいるんだか、見つけられなくってねぇ」と応じた。 確かに、彼女たちが手にしているのはカレーライスではなく、やきそばだった。 聞くと、韓用順さん(78)、韓今順さん(72)、韓末順さん(63)の3人は、姉妹だという。 幼い頃は豊橋で日本の学校に通い、結婚して東京にやってきた。子供をみな東京中高に通わせ、孫たちもこの学校で学んでいる。朝鮮学校への思い入れは強い。 「うちのオモニはねぇ、国から渡って来て、小さいとき学校に行けなかったから、子供たちはどんなに苦労してでも勉強をさせなきゃって、私たちを学校へ通わせてくれたんだよ。トンムは知らないだろうね。聞いてみな、上のオンニ(用順さん)の年代で学校に行った人、そんなにいないよ」と、今順さん。 確かにそうだ。72歳になる今順さんの年でも文字の読み書きのできない人はたくさんいる。 用順さんは、小さい頃「朝鮮人!」といって、よくイジメられた。今順さんは5年生のある日、習字の紙に書く名前が「シミズ・キミコ」に変わった。日本による創氏改名が脳裏に深く刻まれている。当時を振り返ると、朝鮮名を失ったもの悲しさと、名前のために目立たなくても良くなったという「安堵感」が微妙に交錯していたという。 悔しかった思い出、悲しかった思い出は山ほどある。母国語は解放後、総聯が開いた成人学校で学んだ。 「ウリハッキョ(朝鮮学校)で勉強できなかったからねぇ、発音がダメなんだよ。リウル(ㄹ=舌を丸めてする発音)ができなくて」と末順さんはいう。 子供が東京中高に通っていた頃は、運動会のたびに朝早くから校門前に並び、開場と同時に場所取りに奮闘した。時には勢いあまってケンカになることも。 「あの頃は若かったねぇ。人も今よりずっと多かった。朝早く来てがんばって、一番前の良い席を取ると、学生たちの行進が鼻の先まで来てねぇ、地響きがするんだよ」「55年も経ったんだねぇ、ずいぶん変わったよ。校舎も変わったし、人も変わった」…
そうした変化の中で彼女たちを喜ばせたのは、創立55周年のイベントに学生や地域の住民など、日本の人たちが多かったこと。「約30年前までは、朝鮮学校と日本学校の生徒たちが、しょっちゅう殴り合いのケンカをしていた時代があった」(今順さん)。それを思うと、「この光景は考えられないこと」だと3人は口をそろえる。 朝鮮学校の生徒たちが披露した華やかな朝鮮舞踊と力強い合唱を見て、用順さんは「涙が止まらなかった」。母国語はおろか、朝鮮名すら名乗れなかった少女時代は、歌も踊りも、民族的な表現はすべて禁止され、朝鮮人だという、ただそれだけで、ひどく弾圧を受けた。その日々を思うと、民族衣装を身にまとい、晴れ晴れとした表情で舞台に立つ子供たちの姿はとても輝いて見えたと言う。また、そうした体験をしたからこそ「朝鮮学校の生徒たちに温かい拍手を送るたくさんの日本人観客の姿に胸がつまる思いがした」のだろう。 学べなかった時代から学べる時代へ。そして対立の時代から共生の時代へ――。限りない可能性を胸に、未来に向かって力強く羽ばたいていく後輩たちに熱いエールを送りたい。(金潤順記者) |