「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―(15)権仁燮
日本と渤海の頻繁な交流
200年の間に50回前後の往来
渤海
渤海と日本の交流の始まりは727年のことである。高仁義ら一行24名は長い航海の末日本の出羽に到着した。しかし、中央からはるかに離れたこの地の人は、見慣れない外国人の到着に混乱し、16名を殺害した。残った一行が奈良の都にたどりついたのはようやくその年の年末のことであった。翌年5月、都で聖武天皇と面会し、両国の友好関係樹立を願う国書・礼物などの交換が行われた。この後、約200年間に双方の使節が50回前後往来した。 渤海使は、都から陸路現在の清津やポシェットに至り、そこから初冬の北西の季節風に乗って北陸、山陰、出羽、長門・対馬などに上陸した。両国の交流は、渤海にとっては交易の相手国として、日本にとっては交易と共に先進文化の摂取に大いに意義があった。使節には大使を始め経使や詩文に優れた文人、武官、通訳、そして各種技術者などが含まれ、一行は「鴻廬館」(迎賓館)に留まりながら交流した。 渤海使は日本にとって「大陸」の状況を直接知ることのできる窓口ともなっていた。その航路は、日本から唐への通行路としても利用され、多数の学僧がこの経路で唐に入っている。学僧達は唐への往復路に渤海の実状を見聞し、そこでも多くのことを学んだ。 使節と日本貴族の交流は活発であった。882年と894年の使節は菅原道真、島田忠臣、紀長谷雄など日本を代表する文人30余人と交流している。この時の様子は日本最初の漢文詩集「懐風藻」に伝えられている。「文章経国は国家の大業」として詩文が重視されたこの時期の日本にとって格好の学習の場となった。 852年の使節は日本に「長慶宣明暦」を伝えている。暦は何よりも農耕や一般の日常生活に欠かすことのできないものであった。それまで使っていた暦は実際の日時は、季節などとの間に誤差が生じていた。この暦は徳川時代(1684年)に新暦が採用されるまでの間800年以上にわたって使用されている。 交易は「礼物交換」の公式のものと、随行者や地方長官がそれぞれの特産品を交易するものとがあった。渤海からは虎、テン、熊などの毛皮、人参や各地の特産物が、日本からは絹、水銀、金銀、漆や時には南方産の海亀などが取り引きされた。日本の貴族は特に渤海の毛皮を珍重し、ある使節が来たときには、自慢気に5月の最中だというのにすでに輸入された黒貂(てん)の毛皮8枚を重ね着して現れた王子もあった。 「海東の盛国」を誇った渤海は、その成立から滅亡に至る200年間に日本との善隣友好関係を結んでいた。その滅亡後記録が殆ど残らず、日本、中国に残る断片的な資料と、その領域の大部分が現在の中国領になっているという制約の中で研究が進められており、最近共和国では大きな成果が得られている。いずれにせよ、渤海は朝鮮史の重要な一部であることを忘れてはならない。 |