生活基盤築き総聯と出会う

観光地・長瀞で手打ちそば屋/林溶燮さん


「1日も早く故郷訪問したい」

 紅葉のシーズン到来とともに多くの観光客でにぎわう埼玉県秩父郡にある長瀞で、「老舗 手打そば はやし」を営む林溶燮さん(73、埼玉県北部地域商工会顧問)。林さんは13歳の時の1941年、故郷の慶尚南道昌寧郡を離れ日本に渡ってきた後、日本各地を転々とし、山あり谷ありの人生を歩んできたが、38年前、ここ長瀞に引っ越してきて以来、常に祖国を心のより所にしてきた。なかでも昨年の6.15共同宣言発表後、総聯同胞故郷訪問団事業が始まった時は、「待ちに待った故郷を訪問することができる。祖国が統一する日もそう遠くない」と思ったという。

13歳で九州の炭鉱労働に

 林さんは、募集の名のもと、40年に筑豊炭田(北九州市)の炭鉱に強制連行されたアボジを訪ね翌年、オモニとともに玄界灘をわたって日本にやってきた。

 そしてアボジが働いていた炭鉱で、飯場の小遣いとして日本人監督と朝鮮人労働者との通訳をしたり、時には頻繁だった落盤事故による労働力不足から、坑内での労働も余儀なくされた。1日10数時間を超える重労働は、幼かった林さんにとって肉体的・精神的にきつかったという。アボジは、炭鉱で体を患い、祖国の解放(1945年8月15日)を見ることなく他界した。

 林さんはその直後、オモニとともに山口県の炭鉱で働くことに。解放はそこで迎えた。解放後故郷に帰ろうと思ったが、故郷の財産はすべて売り払って渡日してきたため帰国を断念。叔父を頼って、群馬県渋川に移り住んだ。その後、高崎や前橋を転々とし、妻の孔桂魚さんと結婚して長瀞に引っ越してきたという。

 それまで林さんは、同胞とのかかわりはあったものの、「各地を転々として食べていくのに忙しく、組織と深く接することはできなかった」という。

 そんな林さんだが、長瀞に引っ越し生活基盤を置くようになってからは、総聯埼玉・北部支部秩父分会や寄居分会の活動を通じて、支部同胞との交流を深めていった。

 「日本に住んでいても、朝鮮人だという自覚をしっかり持って生きていくことが大切。それを総聯組織が教えてくれた」

 子どもも朝鮮学校の寄宿舎に入れるなどして、大学まで通わせた。

 林さんは故郷にいた時、朝鮮人だけに試験を受けさせるという日帝の差別政策により小学校入学を断念。しかたなく夜学に通ったものの、生活苦から3年間しか学ぶことができなかった。そのため子どもには、「ウリマルを学ぶ幸せ、民族を誇れる喜びを味あわせたかった」という。

分会活動で広がる同胞の輪

 林さんは現在、足を患い、車で1時間半かかる支部事務所を訪ねることはできないが、「支部活動家などが訪ねてくれることが何よりもうれしい」と言う。また朝鮮新報を読んで、祖国の情勢や各地の同胞の便りを知ることも欠かさない。

 とくに6.15共同宣言が発表された時は、「これでようやく、『国家保安法』でつかまることなく故郷に行けると思った。同時に、統一が現実に近づいていることを実感できた」と語る。

 林さんは現在、故郷への訪問を申請中だ。62年前に故郷を離れた後は、親族との音信は不通だが、自分が育った故郷をこの目でもう1度見て、息子たちに先祖の墓がある位置を教えたいという。

 林さんは、「統一を早める道は何よりも、共同宣言が履行され、統一に対する機運がよりいっそう高まることだ。そして、これからは1世だけではなく、2世や3世など多くの同胞が故郷を訪れることが可能になることを願う」と述べていた。

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 「手打そば はやし」は秩父鉄道長瀞駅下車。ライン下り(約6キロ)の発着所を結ぶ、お土産屋が立ち並ぶ岩畳商店街に入って左側7軒目。そばは秩父の大滝村で採れたそば粉で毎日打っている。大滝村は山間部にあり、朝夕の気温の差が大きいため良質のそば粉が採れるとのこと。だし(そばつゆ)は、カツオ節と昆布で、化学調味料は一切使っていない。秩父地方の漬菜、しゃくし菜飯もおすすめという。紅葉は11月中旬から末までが見頃。

 営業時間は午前10時から午後5時まで。不定休。席数は36、座敷1室15人収容可。TEL  0494・66・0222。同店と観光に関する詳しいことはホームページ=http://www.chichibu.co.jp/で。

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