高句麗墳墓と古代出雲 (下) 全浩天
武器、 馬具、 須恵器に残る豊かな恵み
高句麗文化との関係は安来平野に続く意宇平野においても指摘されているが、ここで考えてみたいのは、古代出雲における鉄鏃などの武器・武具や鉄挺(てつてい)・馬具、須恵器などは大和朝廷を介して出雲にもたらされたのであろうか、ということである。6世紀後半までの多くは朝鮮東海と北ツ海をとおして朝鮮半島からもたらされたものと思われる。しかし、出雲の王が大和に服属し、出雲国造として大和に忠誠を誓う時期である6世紀末以後となれば政治的状況は異なる。出雲の王が大和におもむいて屈服儀礼である「出雲国造神賀祠(かむよごと)」を奏上する以後は出雲独自の対岸交流は失われていった。 近年来、注目をあびているのは妻木晩田(むきばんた)遺跡である。なかでも朝鮮半島とかかわって考えたいのは四隅突出型墳墓と箱式石棺墓、住居の形式。ここでは古朝鮮と高句麗墓制の変遷と関連して妻木晩田遺跡の墳墓を考えてみたいと思う。
高句麗墳墓といえば積石塚と言われるほど代表的な墳墓である。積石塚は鴨緑江の中国吉林省側の沿岸で数万墓、北部朝鮮では約10万基が存在するといわれている。積石塚は地表の土を平らにしてその上に石を敷いて墳丘の基底を造る。そこに死者埋葬する施設を作って、河原石や山石、加工した石で覆って墳丘を築く。積石塚は紀元前4〜3世紀から築かれるが、その平面形態は方形を中心としながらも長方形である。近年、発掘調査がすすむなかで積石塚の形態が方形、長方形だけではなく多様な形態があることがわかった。 注目されるのは鴨緑江中流沿岸において紀元前1世紀頃の前方後円形、前方後方形、四隅突出形の積石塚が築かれたこと。最初の積石塚は基壇のない無基壇積石塚だが、それが発展して基壇をもつ基壇積石塚に発展していった。 基壇積石塚は3段を基本にしながら4段、5段とピラミット式に積み上げられ、その発展の頂点には7段に積み上げた吉林省集安の将軍塚や高さ30メートルの太王陵が位置する。いずれも5世紀初の築造だ。このような積石塚の発展過程から3世紀にはすでに、壁画古墳にみられるように石室を土で覆った石室封土墳が生まれている。 高句麗の積石塚であれ、石室封土墳であれ、日本の古墳と対比するとき共通するのは死者を埋納する構造的な位置である。四隅突出形や前方後円形、後方形をふくむ朝鮮の墳墓は地表に築かれ、竪穴式・横穴式を問わず埋納位置は墳丘内の地表か上部、あるいは半地下になっている。日本の古墳の場合も同様である。この点、地下深く埋納される中国の墳墓と顕著な違いをみせている。 終りに松江市の田和山遺跡にのべたい。田和山遺跡の環濠から平壌・楽浪のすずりではないかという石板の破片が発見されて注目を集めている。田和山遺跡から出土した石板と対比されたすずりは、日本の植民地時代に楽浪区域から発見されたものである。紀元前2世紀から紀元1世紀に形成された田和山遺跡出土の石板と楽浪のすずりは、同質の成分であり、同質であるといわれている。だから田和山の石板の破片がすずりの破片である可能性がある。 1990年代の前半に朝鮮社会化学院考古学研究所は平壌市楽浪区域において大々的な発掘調査を行った。その結果、多くの文房具やすずり、墨などを発見した。私は楽浪区域の土城洞83号墳の木槨から完形したすずりと墨を観察したことがある。このたび、松江市の好意によって問題の石板の2片を拝見させていただいた。 田和山の石板と土城洞83号墳のすずりを精密に対比したわけではないので断定的な結論はおろせない。印象的には類似する点もあり、そうとは思えない点もあった。 ともあれ可能性があるのは楽浪区域出土の完形したすずりと厳密な対比・検討が必要である。田和山遺跡の環濠出土の石板が楽浪のすずりであるとすれば、田和山遺跡は、北部朝鮮との深い関係が弥生時代の昔からあったことが明確になる。そればかりではない。田和山遺跡環濠そのものが朝鮮半島の影響で生まれたことになる。 田和山遺跡の環濠は島根半島の対岸、東海をはさんで、朝鮮初の環濠遺跡の発見として注目された慶尚南道の検丹里遺跡との交流からうまれたものと考えている。 |