ウリ民族の姓氏−その由来と現在(28)

木川馬氏の始祖は高麗の軍官

種類と由来(15)

朴春日


 馬(マ)氏、魚(オ)氏といえば、珍姓の類と思われがちだが、じつは古い歴史を持つ由緒ある稀姓の種類に属している。

 わが国における動物名の姓氏は、このほかに虎・象・牛・羊・燕・鮑(ポ)などがあり、十二支の申・戌(ム)などと、想像上の動物、龍・鳳・鴻(ホン)などがある。

 動物名の姓氏はトーテミズム(動植物・自然信仰)からきているが、檀君説話に現れる熊女(ウンニョ)は、熊を崇拝する部族集団の名である。

 その意味で、檀君朝鮮の貴族評議機関である「8加」に、虎加(ホカ)を筆頭とする馬加・牛加・熊加・鷹加(メカ)・鷺加(ロカ)・鶴加(ハクカ)・狗加(クカ)などがあったのは注目されよう。

 また陳寿の「三国史」扶餘伝には、「扶餘の一官職の名称はすべて六畜の名で呼んでおり、馬加・牛加・豬加(チョカ)……がある」と記されている。

 そうした史実を踏まえて、まず馬氏を見ると、本貫数は30余であるが、その歴史は古く、高句麗・長寿王12年(424)のとき、宋へ派遣された使臣の中に馬婁(マ・ル)の名が見える。

 また百済の始祖・温祚王の馬黎(マ・リョ)がおり、馬武という武官も記録にあるが、扶餘、高句麗、百済に馬姓が多いのは、これらの国々が馬を重視していたことと深く関連している。

 さて、代表的な木川(モクチョン)馬氏の始祖は、高麗の軍官・馬占中(マ・チョムジュン)である。

 その由来記によると、木川の住民は王建の軍に反抗し、高麗建国後もたびたび騒乱を起こしたので、王建が戒めに馬姓をつけさせたという。事実はともあれ、史書には「賜姓」とある。

 木川馬氏には秀れて立派な学者が多い。李朝の大学者・徐敬徳と李栗谷を感嘆させた馬義慶(マ・ヒギョン)とその兄・馬義祥(マ・ヒサン)をはじめ、宰相らの称賛をうけた馬義慶の子・馬嗣宗(マ・サジョン)と、後進に慕われた馬游(マ・ユ)も広く知られた学者である。

 長興(チャンフン)馬氏の始祖は、もと木川にいた馬智伯(マ・チベク)で、彼は高麗の国子博士(成均館の前身)に任じられた学者であった。その玄孫の馬天牧は高麗末の将帥である。

 壬辰倭乱のとき、李舜臣将軍を支えた繕工監(建築官庁)の馬河秀(マ・ハス)は、豊臣水軍を痛撃した鳴梁沖海戦で敵弾に倒れ、壮烈な死をとげたが、その子・馬成龍と馬為龍は、父の復讐戦で大きな戦果を上げている。

 ほかに光州馬氏と全州馬氏がいるが、百済から倭国へ派遣された王仁博士の後裔に、馬史(うまのふひと)国人がいる。「史」は文筆職務の姓(かばね)で、「万葉集」巻20には彼の短歌一首が見える。 次は魚氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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