「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―(18)権仁燮
日本国王使60余回派遣
高麗から多彩な文化学ぶ
元による日本侵略以来途絶えていた高麗・日本間の関係は1367年、倭寇禁圧要請のために高麗使が派遣され、日本からその返礼使が派遣されるようになって再開された。1404年、足利義満が朝鮮に「日本国王使」を、朝鮮からは「通信使」が派遣された。
通信使というのは、互いに信義を通わせる使節という意味の朝鮮国国王の使節のことである。こうした使節の交換が豊臣秀吉の朝鮮侵略までの約200年間、朝鮮国使は60余回、その内通信使は5回、日本国王使は60余回に及んだ。日本国王使の大部分は日本国内の仏教振興策と関連するものであった。 日本では禅僧を外交の実務者として多用し、彼らは「八万大蔵経」や梵鐘、仏像、仏画などとともに、多くの文化を日本に取り入れた。 1423年国王使の一行として朝鮮に渡った僧・如拙、周文らは本格的な水墨画を日本に定着させている。また、朝鮮では日常雑器に過ぎなかった茶碗に独特の美を見いだし、「高麗茶碗」としての価値の高さを定着させ、「侘び茶」の世界を成立させた。 木綿は朝鮮で「百姓の衣服のもと」として広く栽培されていた。それまでの日本での衣の原材はくず、からむし、麻等でそれで織られた織物は目が粗く肌をチクチク刺すざらざらしたものであった。その日本に、着て肌にやさしく、暖かく、強靭で色落ちしない、木綿が大量に輸出された。 朝鮮王朝では、「未開の人々を教化する手段として交易を行う」という名分論から、日本の使節は言うに及ばず商人をも外交使節として処遇した。 初期の通商には、日本船は商船と外交使節の船とに区分された。商船の増加と共に入港地の指定、渡航制限などが実施された。朝鮮が倭寇の本拠地対馬を討伐した「己亥東征」(1419)以後、朝鮮への渡航は朝鮮政府や対馬の宗氏発行の文券を持つ者に限られ(勘合貿易)、三浦(釜山浦、乃而浦〈熊川〉、塩浦〈蔚山〉)が開港された。対馬の宗氏は証明書発行手数料や交易品への課税などで莫大な利益を挙げた。 三浦には「倭館」が設置され、日本人役人や商人、僧侶などが常駐するようになり、中には不法に滞在し、禁止されている内陸部へ出かけて商売する者や、農具・牛を買い入れて農耕する者まで現れた。これらの「倭人」が武力を持って乱を起こし鎮圧されるということもあった。 一方、日本との貿易の拡大は綿布などの生活必需品の値上がりを招き、朝鮮の人々の生活を圧迫した。 朝鮮との交易を支えたのが銀であった。日本では貿易用の貨幣として常にその質がたもたれていた。特に1533年朝鮮からの技術による新しい銀精錬方の採用によって、日本は17世紀にはいると世界の産銀量の3分の1を占めるようになった。 倭寇の侵入や滞在する日本人の騒動、往来商人の不正など、関係の乱れが生じる度に朝鮮政府は交易の中断、新しい条約の締結などを行いながら両国の関係は維持された。 「歴史の窓」 日本からの上京路 日本からの使者や商人の上京路の沿道住民は大きな負担を強いられ、またこの路が豊臣秀吉の侵略時に利用された。 |